犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

名人伝の話など

2014-10-19 23:15:11 | 日記

何かの拍子に思い出しては、しばらく頭の中に渦を巻いて占領してしまうような話があります。中島敦の小説「名人伝」は、そのなかのひとつです。

中国の邯鄲の都に紀昌という若者がおり、天下一の弓の名人になろうとしました。師に付いて「瞬き」をしない訓練を積むよう命じられ二年、微小な物を凝視する訓練を積むよう命じられ三年、ようやく師に許されて弓をとって矢を射る訓練を受けると、驚くほど上達は早く、師と互角の腕前にまで達するようになりました。やがて師から西方の山奥にいる老師に付いて更なる修業を積むよう勧められ「不射の射」という秘伝を授けられ、九年後に都に帰って来た時には、名人の名を欲しいままにするようになります。紀昌の屋敷の天上では、夜な夜な雲に乗った紀昌が、いにしえの弓の名人達と技比べをしている様子が目撃されるなど、その名声はいやがうえにも神格化して伝えられました。ところが、紀昌が死去する二年程前、知人の家に招かれた時のことです。その家にある道具の用途がどうしても分からないことを告げて周囲を仰天させます。その道具とは紀昌が名人と謳われた「弓」だった、というお話です。
名人も、ある境界を超えると「忘我の境地」のようなものに達するのか、としみじみと考えてしまいます。しかし「不射の射」を体得して都に帰ってきた紀昌は、人々の期待どおりの名人ぶりであるのに対し、最後の紀昌の姿はそれを裏切るものです。それは名人の極北の姿というよりも、それまでの話の断絶と言った方がふさわしいでしょう。

森鴎外の「寒山拾得」もよく分からない話ですが、心の奥に居座るような気味の悪さを持っています。
閭という役人が台州に任じられて赴任の途中、ひどい頭痛に悩まされます。そこに現れた豊干という僧のまじないで見事に頭痛が治まりました。謝礼を受け取ろうとしない豊干に、それではせめて任地の台州で会ってみて為になるような偉い人を教えて欲しいと閭は頼みます。これに答えて、豊干は寒山と拾得の名前を挙げます。閭は早速二人を訪ねていきますが、恭しく接する閭に対して、二人は「豊干がしゃべったな」と言って嘲笑いながら逃げて行くばかりでした。
この話は、俗物である閭が、みずから確認する術のない権威を闇雲に尊敬するさまが風刺されているのだ、と読むことができます。森鴎外の「寒山拾得縁起」では、子ども達にせがまれて寒山拾得の話をしたところ一向に理解されず、ついには「実はパパアも文珠なのだが、まだ誰も拝みに来ないんだよ」と煙に巻いて話を終わらせています。鴎外は、単に俗物を嗤うことを目的として、この訳のわからない話をしたのでしょうか。ここでも話の断絶に注目をしたいと思います。閭の一途な思いと、寒山拾得の哄笑とのあいだに横たわる大きな断絶です。

人間はその能力の及ぶ以上のところへ思いをはせることができますが、極限について思いを致す時、人間の思考は誤作動を起こします。極限において人間が犯す過ちは、みずからの尺度でもって、その尺度自身を計ろうと企てることです。名人も仙人も、自分の属する世界の外側にいるのならば、その外側を思い描くことは不可能なはずですが、その先を覗いてみたくなるのは人情というものでしょう。 

無垢なる憧れの向こうがわを望遠鏡で覗いてみると、そこにあるのは自分自身の想像の似姿に過ぎないのかもしれません。雲に乗って弓の技比べをしたり、たちまちのうちに頭痛を治したりといった姿がそれです。
先に挙げた二つの話には大きな断絶があることを見てきましたが、それは自分自身の似姿との断絶であると言えないでしょうか。


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