犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

貧(とん)と瞋(しん)

2016-12-30 00:43:13 | 日記

精神科医・名越康文さんの本のタイトルの多くは、いわゆる実用ハウツー本のそれに近いため、実際に手にとって読んでみるまでは、その真価に気付かないことがあります。
『自分を支える心の技法 対人関係を変える9つのレッスン』(医学書院)もそのひとつではないかと思います。
本書は医療従事者に対する講演録に大幅に手を加えて、一般向けの書籍にしたものです。そのため、読者(講演の聴衆)が日常的にストレスフルな環境にさらされていることを前提にしており、そのような読者(聴衆)の心にダイレクトに響くような語り口になっています。

本書では「怒り」が、いかに人の心を浸食しやすく、疲弊させるかを説き、そこからの脱却を目指すための具体的な方策が記されています。
わが国には、「祟る神」によって神格を高められているような神様の例がたくさんあり、その怒りが解離的(文脈から離れて突然怒り出すこと)、暴力的であればあるほど、その存在を敬い、自らの庇護者として取り込もうという民衆の精神の地層のようなものがあります。
名越さんはこれを「怒りに甘い」文化として批判します。

ブログとかツイッターの炎上、あるいは口論を見てもそうです。文脈を超えて、過剰に怒っている人のほうが支持を得る、ということが往々にして起きる。冷静な議論よりも、怒っている人、感情的な人のほうが場の空気を支配してしまう傾向がある。
この背景にはやはり、僕らが文化的に、解離的な方を好んできたし、許容してきたということがあるんだと思います。(56頁)

この怒りの「古層」にたどりつくために、名越さんは生まれて間もなくから3年程の間の乳幼児期のコミュニケーションにさかのぼります。私たちは人生の最初に、怒り、泣きわめくことで、おむつが濡れたり、ひもじかったり、暑かったり寒かったりするたびに、その不快を除去することを学びます。非常に自分勝手な問題の多いコミュニケーションがまず、われわれの人格形成の古層にあるわけです。
さらに問題なのは、その怒りをぶつける相手が、自分を一番心配してくれ、命に代えても守ってくれる庇護者である母親であるということです。

つまり僕らは生まれてから2,3年の間に「自分にとってもっとも大切な相手に対して、もっとも激しい怒りをぶつけ、それによって不快を除去してもらう」というコミュニケーションパターンを繰り返し刷り込むことによって、心を形成してきたんです。そう考えると、僕ら人間は、なんと不幸な生い立ちを持っているのかと思わないでしょうか。僕たちは、もっとも自分のことを気遣ってくれる人に、もっとも感情的な怒りをぶつけてしまうことを宿命づけられた存在なんです。(42頁)

われわれの人格形成の最初に、このような誤りがあるのですから、それは事あるごとに頭をもたげ、心を占領してしまうのは無理もないことなのかもしれません。しかし、そのことにじゅうぶん自覚的であり、「怒り」を取り除く心構えを日々積んでゆくことで、いくらかでもその重力から逃れることは可能です。

そこで、名越さんは仏教の教えに込められた、精神医学上のすぐれた知見に注目します。
仏教では怒りを「瞋(しん)」と表現します。これに欲深さを表す「貧(とん)」と無知であることを表す「痴(ち)」をあわせた3つを人間が克服すべき煩悩であると、仏教ではとらえます。しかも、この3つの煩悩は互いに影響を与え合っています。
このうち、「貧」と「瞋」の関係について説明するために、名越さんが紹介するエピソードには、深く考えさせられます。

僕の友人に、三十代でがんで亡くなった医師がいます。肝臓がんで、だんだん腹水がたまってくるところまできた。その彼に、僕が見舞いに行ったあるとき「何が一番しんどい?」と聞いたんです。そうすると、「新しい治療法があって“これやってみないか”と言われたときが一番しんどい」と言うんです。どういうことか。死ぬことを受け入れて、残り少ない人生をまっとうしようという、すごく静かな心になっていても、「これやってみるといいかもしれないよ」と勧められると、どうしたって欲が出る。欲が出ると心が乱れる。心が乱れると怒りがわいてくる、ということを、おそらく彼は言いたかったのだと思います。(83頁)

希望を持つということすら「貧」に陥りかねず、それが「瞋」を引き起こすというのです。
冒頭に述べたように、本書は医療の現場でのっぴきならない関係に立たされる医療従事者に向けて語られた講演をベースにしています。それゆえ、「瞋」の取り除き方についての記述も臨床的ですらあり、われわれを実践へと導いてくれます。

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茶家に生まれ生きる

2016-12-27 20:43:59 | 日記

千利休の四百年忌の年、京都国立博物館の「千利休展」展示場でのことです。
会期前の設置作業をしていた三井記念美術館の赤沼多佳氏が、ちょうど細川家所蔵の花入「顔回」を箱から取り出して、展示台に置いた瞬間でした。
「ああ、顔回ですね」
という声が聞こえたので、赤沼氏が振り返ったところ、足下に子どもがうろちょろするだけで誰もいません。
このとき、大人達を心底驚かせたのが、現在の武者小路千家次期家元、千宗屋さんの子ども時代の姿でした。

千利休の再来とも言われ、ニューヨークで実験的な茶会を催すなどの試みを続ける千宗屋さんの著書『茶 利休と今をつなぐ』(新潮新書)に、決して嫌味ではなく添えられたエピソードです。
子供ながら目利きである、というだけではない、宗屋さんの人柄のなせるところでしょう、大人達にたいそう可愛がられておられます。京都随一の古美術商に好事家が集うサロンの中にも、自然とその姿がありました。
晩年の白洲正子に高校生である宗屋さんが、茶杓の造形について話をするという機会もあったそうです。

武者小路千家と縁の深い大阪の道具屋に、高校生の宗屋さんが出向いたときのことです。先方は「えらいこっちゃ」と大騒動で準備をし宗屋さんを迎えました。
このとき和物茶器の「これは見たことがある」というオールスターが、取り揃えてあったのだそうです。道具屋さんがお客さんに納めたものを、わざわざ借り受けてきたものもあったと記されています。

茶道具が一国一城に匹敵する桃山時代、天下人が道具を下賜することで、茶の湯ソサエティに参加してもよいという許可を与えました。天下人は道具の価値の決定権を握ることで、武将達を経済的にも精神的にも支配しようとしたわけです。
家元の許状システムの原型が、このがんじがらめの支配関係なのだとすると、支配システムそのものは無批判に継承されてよいものとも言い切れないでしょう。
しかし、宗屋さんが上記のようなエピソードを通して強調するのは、もともとが道具との抜き差しならない関係からスタートした茶の湯が、稽古の方法やマニュアル化された点前の順序にのみ矮小化されてはならない、という点です。

「世襲で家の芸、職というものが伝えられていく一番のメリットは、稽古場以外の場所で茶の湯について習い覚える時間がどれだけ長いか、ということに尽きると思います。」ーこう宗屋さんは述べます。
ささいな日常のなかにお茶に関わる情報が含まれており、それを空気のように呼吸するうちに、一椀のお茶に集約されてゆく、その静謐な生活を続ける覚悟が、宗屋さんの文章に滲み出ています。


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見えない季節

2016-12-19 00:28:22 | 日記

内容が硬く、装丁も地味なために、本来の読者層である中高校生からは敬遠されがちな岩波ジュニア新書シリーズですが、手にとってみるとその分かりやすさとともに水準の高さに驚かされ、時を忘れて思わず読みふけってしまいます。
そのうちのひとつ『詩のこころを読む』(茨木のり子著 岩波ジュニア新書)には、珠玉の詩たちがわかりやすい解釈とともに、光り輝いています。
そのなかで、しばらく立ち止まらざるを得なかった詩がこれです。

見えない季節 牟礼慶子

できるなら
日々のくらしを 土の中のくらさに
似せてはいけないでしょうか
地上は今
ひどく形而上学的な季節
花も紅葉もぬぎすてた
風景の枯淡をよしとする思想もありますが
ともあれ くらい土の中では
やがて来る華麗な祝祭のために
数かぎりないものたちが生きているのです
その上人間の知恵は
触れればくずれるチューリップの青い芽を
まだ見えないうちにさえ
春だとも未来だともよぶことができるのです

茨木のり子さんは、この詩を青春の真っ只中にある苦しみに、重ねています。
冒頭三行は「つぶやきとも悲鳴とも忍耐ともつかない内的独白をかかえて、苦闘する」さまを表しています。

これに続く「地上は今/ひどく形而上学的な季節/花も紅葉もぬぎすてた/風景の枯淡をよしとする思想もありますが」のあたりは、『新古今和歌集』藤原定家の次の歌を踏まえているのだそうです。

み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

枯淡をよしとする定家の歌には、瞬間的に想起させた花や紅葉の彩りが、直ちに「不在」となるレトリックによって物寂しい世界を演出する旨さがありますが、やや理に勝ちすぎるところがあるかもしれません。
これに対して、おなじく「侘しさ」を詠んだ藤原家隆の次の歌はちがう趣きを漂わせています。

花をのみ まつらん人にやまざとの ゆきまの草の 春をみせばや

千宗屋さんが『茶 利休と今をつなぐ』(新潮新書)で述べていることですが、定家の「枯淡をよしとする」侘びの姿が、利休の師 武野紹鷗のそれであるのに対し、藤原家隆の境地は利休の侘びの姿を表しているのだそうです。定家の歌が、瞬間にイメージさせた花や紅葉が「不在」であることによって侘びを引き出すのに対し、家隆の歌は、今あるもの・ことから無限にイメージを膨らませて行く、能動的な侘びを醸し出します。そして、後者こそが利休のものだ、というのです。
真っ白な雪に埋もれた清新な世界にも、万物が生い育っていく春があり、その春を待ち焦がれる人の心にはもう既に春は始まっている。そう詠む家隆の歌は、前掲詩の後段にそのままつながります。

「ともあれ くらい土の中では/やがて来る華麗な祝祭のために/数かぎりないものたちが生きているのです/その上人間の知恵は/触れればくずれるチューリップの青い芽を/まだ見えないうちにさえ/春だとも未来だともよぶことができるのです」
茨木さんは解説のなかで「もっと豊穣なもの、たわわな色彩、躍動的なものを準備し用意しているものへの期待をあらわにしています」と述べています。詩の中段が紹鷗の思弁的、内省的な世界であるとすると、後段にいたって、利休の「能動的な美」の世界へ移行するのです。

ここで、注目したいのは、美に対する姿勢や、侘びのあり方の図式的な対比ではなく、「できるなら/日々のくらしを 土の中のくらさに/似せてはいけないでしょうか」で始まる、つぶやきとも悲鳴ともつかない独白から、一気に描ききられていることです。
理屈による救いではなく、苦悶の底にいても腹から湧き上がるような歓びはきっと生まれる。こんなに真っ暗な今だけれども、せめてこう考えることはできないだろうか、と。
後段の躍動的なくだりは、祈りのすえにたどり着くような境地にも見えてきます。


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共感と驚異

2016-12-18 10:04:43 | 日記

歌人の穂村弘さんは、言語表現を支える二つの要素として「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」を挙げます。
多くの読者が好む「泣ける本」の類は、穂村さんによれば「共感」優位の読み物であり、言葉の中に「驚異」をはじめから求めていないのです。逆に、詩歌が敬遠されるのは「共感」よりも「驚異」との親和性が高いからだと言えます。
「共感」にもたれかかる表現を選択することは、つまりは驚異など「なかったことにする」ことに等しく、そのような「なかったことにする」生き方を知らないうちに選びとっているのだ、というのが穂村さんの意見です。軽妙洒脱なエッセイの書き手である穂村さんが舌鋒鋭い批判者に変わるのは、まさにこのような態度に対してです。

スポーツの選手が遺影を抱えて入場してきたことを何度も強調するアナウンサーがいる。その選手のプレイ自体が生み出す「驚異」が信じられず、外部の物語による「共感」を付与しないと視聴者は感動できないと思っているのだ。先日の高校サッカー中継では、監督の名前が画面に出るたびにその下に「去年の十一月に心臓の大手術」の文字が表示されていた。テレビ的に最も価値ある情報が「それ」なのだろう。スポーツを一種のドラマに、つまり「驚異」を「共感」に変換したいのだ。(『整形前夜』 講談社文庫)

詩的な言語感覚は「次の瞬間に全く無根拠な死に見舞われる可能性」に対する態度と分かち難く繋がっている、と穂村さんは指摘します。我々が生き延びるために身にまとっている社会常識やものの見方にとって本質的に意外なものは、物語に回収されないような「死」です。そして詩歌においては、言葉どうしが死と生の絶対的な亀裂をきらめかせながら、両者が予定調和に陥ることなく響き合っています。

「一見無関係な言葉同士が別次元で響き合う」という詩的原理の根底には、我々の日常の生そのものが死という絶対的意外性を内包している、という命のメカニズムがあるのだろう。そのことの感受なしに、死を単なる質草として命の掛け替えなさを「表現」することはむしろ冒瀆ではないのか。生と死を描いて感動的とされる大作映画やベストセラー小説が、ときに「ふざけている」ように感じられる理由はそれだと思う。(前掲書)

「死を質草にする」という表現も苛烈ですが、歌人にとって「泣いてください」と言わんばかりの表現は、言葉の可能性を積極的に放棄する許し難い行為なのだと思います。「共感」にもたれかかる弛緩しきった世界を賦活するはずの「驚異」が、「共感」の道具立てになってしまっていることに、歌人は耐えられないのでしょう。

端的に「驚異(ワンダー)」について、数々の美しい文章を残した人として、海洋生物学者のレイチェル・カーソンを思い出します。とりわけ彼女の著書『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)がそれです。彼女は幼い甥っ子のロジャーと一緒に海辺や森を散策し、星空や夜の海を眺めた経験をもとに本書を綴ました。彼女はこう記しています。

見すごしていた美しさに目をひらくひとつの方法は、自分自身に問いかけてみることです。
「もしこれが、いままでに一度も見たことがなかったものだとしたら? もし、これを二度とふたたび見ることができないとしたら?」と。(前傾書 28頁)

著者がガンとの闘いのなかで、最後の仕事として書き上げた本書の中には、彼女自身の死への自覚によって照らし出されるような輝きが満ちています。しかし、この本のなかで彼女は、ことさらに自分の病気について触れるようなことをしてはいません。


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啐啄同時

2016-12-03 00:10:08 | 日記

中国の仏典「碧巌録」に次のような問答があります。
中国に鏡清禅師という高僧がおり、一人の学僧が禅師に向かってこう嘆願したそうです。
「学人啐す、請う師啄せよ」と。
つまり「私は十分に悟りの機が熟しており、今まさに自分の殻を破って悟ろうとしています、どうぞ先生、外からつついてください」と学僧は禅師に向かってお願いしているわけです。
これに対して鏡清禅師はこう答えます。
「つついてやってもいいが、おまえというものが生まれてくるのか。」
学僧はこう答えたそうです。
「私は、もし悟れなかったら世間に笑われます」と。
鏡清禅師は「この俗物めが」と一喝しました。
その後の学僧の消息はしれない、というのが問答のエピソードです。

ここから「啐啄同時」(そったくどうじ)という禅語が生まれます。雛が卵の中から「啐す」(殻をたたく)、これに応えて親鶏が「啄す」(殻をつつき返す)。この両者の絶妙なタイミングによって雛はかえるのだ、という教えです。
師弟関係において、教えと学びの機の熟するベストタイミングというものがあり、過たずその機に双方からのアクションを起こすことによって「学び」は発動するのだ。普通そのように解釈されますし、それじたい優れた知見であると思います。

しかし、例えば安岡正篤が佐藤栄作に啐啄同時を教え、佐藤は「待ちの政治家」であることを学んだという逸話を耳にすると、そのようなプラグマティズムに回収されない何かを「こそ」学びたいと感じます。辛抱強く待ったから思いが通じたという実利的な因果関係ではなく、結果的に「学び」が成立する瞬間とはどのようなものなのかが、この問答では活写されていると考えるからです。

まず、出典の「碧巌録」に戻りましょう。
学僧は卵の殻の中から「啄せよ」と師に懇願しますが、殻の外は見えていません。一方、師は学僧の悟りの度合いを正確に測っているわけではなく、つまり殻の中が見えているわけでもありません。禅師としては、殻をつつき返すタイミングは学僧の殻をたたく時期と一致しなかったのだから、殻は破れず、結果的に何も起こっていないのと等しいことになります。にもかかわらず、問答のなかの学僧は「禅師、もう何かが起こっていることにしてください」と懇願したのです。
学僧は殻の中、師は殻の外にあって、お互いの対面は未だ実現していない。ここで「殻」と言っているものは、コミュニケーションを阻害する要因を指しているのではありません。学僧はそのことについて決定的に勘違いをしていたために、放逐されてしまうのです。

我々はイメージでものを考えます。学僧がおり、禅師がいて、それを隔てる殻が両者の間にあって、あたかも断面図を見透かすように全体の関係を見渡せるように考えてしまいます。だから、両者がうまく結びつくような知恵はないものかという風に思考は流れてゆくことになるのです。殻を隔てて存在する学僧と禅師とのコミュニケーションを上手にとって、学僧の習熟度合いを禅師に伝えることによって、「学び」の効率化が図れないものなのかと。
しかし碧巌録では、学僧の視点、禅師の視点のみが描かれており、その両者がつながり合うようにするための方法については、まったく考慮の外にあります。
いわば、殻が破れた瞬間に、学僧は師を発見し、師は学僧を発見して、「覚者」としての両者の関係がはじめて成立するのです。ちょうど雛がかえった瞬間に雛は親鶏を認識し、親鶏は雛を認識して、親子の関係がそこではじめて開けるように。ここで初めて親鶏は親鶏としての地位をさかのぼって与えられ、雛鶏は初めて雛鶏になると言えるでしょう。

だから、どうすれば殻は破れるのかと考えたり、時間が解決してくれるのだと開き直ったりすることは、方向がまるで違うのだと思います。破れることですべてが始まるのであって、破るために何か策を弄するという構えこそが、殻を破ることを遠ざけているのだと知るべきです。

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