犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

千の川に映る月

2023-09-29 21:00:29 | 日記

家族そろって近くの公園にでかけて、一緒に中秋の名月を見ることができました。
妻は病院の検査の結果もよく、去年とはまったく違った月に見えたことでしょう。再来年の就職に向けて企業インターンに忙しい娘たちの月は、少し不安の色を映しているのではないかと思います。
同じ月に向かい、それぞれが違う思いでそれを見ている、けれども月に照らされたそれぞれの心は、さっきまでと比べてほんの少し晴れやかなように思います。

月は万人を分け隔てなく照らす、仏性はあまねく存在するのだなどと言われますが、そう言われたところでピンとはきません。月が私以外の人の心をどう照らしているのだろうか、そう思いを馳せることによって、はじめて心は伸びやかに広がるのではないかと思いました。

西田幾多郎の好んだ詩に次のようなものがあります。

『千江有水千江月 万里無雲万里天』 
(千江水有り千江の月   万里雲無し万里の天)

あらゆる川は水をたたえて、それぞれが月影を宿し、どこまでも雲ひとつない天は無限に広がる、という意味です。日本の禅師の言葉でありながらダイナミックで、対句を成した詞調もリズミカルなので、中国人にもよく知られた言葉です。

玄侑宗久は、その著書『禅語遊心』(ちくま文庫)のなかで、この禅語を解説しています。「千江有水千江月」とはあまねく存在する仏性の発見であり、「万里無雲万里天」は、それぞれの仏性が開花した様子を表しています。そして煩悩の雲が無くなってしまった、満天の澄んだ空が「万里無雲万里天」なのです。そのうえで、前半と後半には飛躍があると、次のように述べています。

自分には仏性がある、ということはなんとか信じられるとしても、前半から後半へは、そう簡単に移行できない。飛躍がある。つまり、嫌なあいつにも仏性があるのだと、心から思えなければ、こんな言葉をすらりとは吐けないだろう。しかしそれができれば、天地は斯のごとく広大無辺になるのである。
(前掲書 150頁)

月を賞でる多くの人を単に思い描くのではなく、玄侑宗久の解釈では他人の心に映る月の光へと思いを馳せる、という大きなハードルが課されます。
他の人へ向かって限りなく開かれてゆく、その心がけの大きさが、雲ひとつない万里の天のような、広大無辺の境地へとつながるのです。
欠けることのない鏡のような月の下で、そのような心持ちに少しでも近づきたいと思います。


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百年たったら

2023-09-23 21:35:00 | 日記


妻と厳島神社まで足を伸ばしました。四半世紀ぶりの訪問です。

あのころはこんなに飲食店が賑わっていただろうかなどと話しながら、観光客でごった返した路地を抜け、昨年末に修復を終えた大鳥居にたどり着きました。神社は西側回廊の修繕が残っているだけで、工事中の覆いの大部分は外されています。
海面と回廊に反射した陽の光が、本殿に続く祓殿に満ちていて、智恵の光、寂光ともいうべきものを湛えているように見えました。そう言えば、この社殿は仏教的だという理由で、明治維新のころ危うく焼却されそうになったと、聞いたことがあります。

フェリーの時刻がちょうど干潮で、帰りかけた観光客の幾人かが大鳥居に向かっていましたが、我々にはその元気もなく、予定どおり帰りの船に乗りました。
広島駅のなかのお好み焼き屋の、長い長い行列に並んで、やっと席に着いて飲んだ「宮島ビール」の美味しかったこと。

地ビールの泡(バブル)やさしき秋の夜
ひゃくねんたったらだあれもいない  

   (俵万智 『チョコレート革命』)

夫婦で宮島に初めて来た頃に出た、俵万智の第三歌集のなかの一首です。バブルの恩恵を受けることのない青春を過ごし、バブルのはじけた厳しさだけが身にしみる新婚当時でした。歌の中の地ビールの泡は、そんな過去を吹き払って、視点を百年たったところまで連れて行ってくれます。

長い行列に耐えてお好み焼きにありついた客たちも、さっきまで宮島の路地を埋め尽くしていた観光客も、百年後にはだれも生きてはいません。

それでも、海中の大鳥居は、百年後にも朱色を輝かせてあの場所に立っているのでしょう。私たち夫婦にあと何年だか残された岸辺には、地ビールの泡がひっそりと浮かんでいて、この日の味を思い出させてくれれば、幸せなことだと思います。


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恋は液体、愛は固体なのか

2023-09-19 20:05:07 | 日記

現在上映中の映画『ミステリと言う勿れ』の宣伝で、かつてのテレビシリーズの再放送をしきりにやっています。
最初の放送はコロナ禍の真っ最中で、その影響でお茶の稽古も中止になるような状況でした。その当時本来なら稽古だったはずの時間に、観るともなくテレビをつけていると、このドラマの番組宣伝が目に入りました。福岡地方局の女子アナ3人がそれぞれにとっての「格言」を披露しあうという短いコーナーです。

そこで披露された、格言のなかのひとつがこれ。

「恋は液体、愛は固体」

他の2人から「どうしたの、何かあったの?」と突っ込まれていましたが、言った本人はこう説明していました。

恋している間は、受け取る相手の器の大きさに応じて、与えられるものも「たったこれだけ」だったり「こんなに沢山」だったり、液体のように変化する。

なるほど、それでは愛の固体は、と期待を膨らませて、テレビ画面に思わず向き合ってしまいました。
するとフリップに書いた文字が、「個体」と誤記されていたので、皆で大笑いというオチでコーナーが終わってしまいました。
消化不良も甚だしい終わり方です。
残された格言が、とんでもなく深淵なもののようにも思えてきます。

彼女は何を言おうとしたのだろうと考えて、次のような想像をしました。
相手を愛してしまうと、相手のキャパを考えずに、宅急便を送りつける具合に思いの丈を送ろうとする。つまり送る側の都合によって大きさが決められてしまいます。それは際限のない贈与にもなり得るし、相手の都合を顧みない勝手な贈り物にもなり得る。
そんなところでしょうか。違うような気もします。

さて、固体と液体が出てくれば、「気体」も当然、用意してあげなければなりません。
相手のキャパに左右されず、こちらの都合で大きさを決めることができない、気体のようなものとは何でしょう。

千手観音の手がなぜあのように沢山あるのかという問いに対して、「闇の中、後ろ手で枕を探す」と答える禅問答があるのだそうです。南直哉さんの著書『刺さる言葉』(筑摩選書)に載っていました。
観音様の慈悲とは、救うべき人とその苦悩をあらかじめ熟知していて、超能力で片っ端から片付けていくようなものではなく、闇の中で枕を探すような当てのない行動だというのです。他者の苦悩に導かれて、失敗を繰り返しながら、それでもあきらめずに、その手がようやく苦しみを癒すところにたどり着くのです。

「慈悲は気体」

興ざめでしょうか。

それにしても「愛は固体」は何を意味していたのでしょう、いまでも気になります。
                     (コロナ禍真っ最中のブログへ加筆し一部再録したものです)


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水を掬すれば月手に在り

2023-09-15 19:03:05 | 日記

掬水月在手(水を掬すれば月手に在り)
弄花香満衣(花を弄すれば香り衣に満つ)

どちらの句を読んでも贅沢な気持ちに満たされるのですが、月を詠んだ前段の句が、私は特に好きです。両手でひとすくいした水に、思いもかけず月が浮かんでいるのに気づく、その一瞬の驚き。
我が家では、この軸を飾り、名月の季節を迎えるようにしています。

出典である唐の詩人于良史(うりょうし)の「春山夜月」と題した五言律句を読むと、改めて懐深い自然に包まれる心地がします。

春山勝事多し 賞翫して夜帰るを忘る
水を掬すれば月手に在り 花を弄すれば香り衣に満つ
興来らば遠近無く 芳菲を惜しんで去かんとす
南に鳴鐘の処を望めば 楼台は翠微に深し

 以下が、詩の大意です。

春の山は素晴らしいことが多いので、それらを愛でていると日が暮れても家に帰ることを忘れてしまう。/川の水を手ですくえば月が手中に在り、花にふれれば香りが衣に満ちあふれる。/興が乗れば遠く近くにかかわらず、芳しい花の香を惜しんで何処までも行きたいと思う。/鐘の音が聞こえる南方を望めば、楼台は山の中腹に隠れている。

この世の中は豊かさで満ちている。私たちはその限りない豊かさに驚きとともに包まれているのだ。そう思ってこの詩の世界に浸っていると、誰に対するともしれない感謝の気持ちが湧き上がってきます。

禅語の解釈では、水を掬った掌の中にも、花の香りが移った衣にも、春の美しさが宿るように、ひとしく仏性は宿るのだと説かれるのが通例です。だからその時々の「気付き」が大切なのだと。
しかし、そのように解してしまっては、溢れるばかりの贅沢さが減じてしまうように思います。

掌中の月は水を掬った瞬間に驚きとともに現れ、花の香りは戸惑うほどに衣に漂い続けていて、それは仏性や何かのたとえ話などではありません。月の影や花の香りに対する畏れや、愛おしさや、そしてこの瞬間のかけがえのなさが、色褪せることなく、ここにあります。
                                   (2013年記事の修正再録です)


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ものごとがうまくいかないとき

2023-09-09 21:59:09 | 日記

ものごとがうまくいかないとき、ジタバタしないことが大切だと言われます。
たとえば『回復力 失敗からの復活』(畑村洋太郎著 講談社現代新書)は、人間は失敗した後には冷静な判断ができないので、穴の空いた風船から空気が漏れるようなことになってしまうと言っています。だからこそ、自然が本来持っている「回復力」を信じることが必要なのだと。

ところが、自分の回復力を信じることができないほどに、意気消沈してしまうことがあるので、話は簡単ではなくなるのです。そうだとすれば、意気消沈してしまわないような心境に達することこそが、遠回りのようでいて確実な「失敗への対処法」ではないか。中村天風がまさにそういうことを述べています。
若い頃読んで、今読み返しても新鮮に感じるくだりなので、少し長くなりますが引用します。

何かの出来事なり事情で、万一意気が阻喪したとか、あるいはまた、ばかに元気がなくなっちゃったというようなことを感じたとき、たとえば自分の思ったことが思うようにできなかったときなんかには、普通の人だったら誰でも、失望や落胆はあるね。そういうときに、今までと違った思い方をすることが秘訣の第一だな。
その秘訣は何だというと、一番先にその出来事なり事情を解決する手段や方法を考えないことなんだよ、どうだい?
あなた方はたいてい、何とかして自分の現在の失望、落胆したことを取り戻そうと、その出来事なり事情を解決するほうへ手段をめぐらすことが先決問題だと思うだろう。それが間違いなんだよ。
一番必要なことは、もしもこの出来事に対して意気を消沈し、意気地をなくしてしまえば、自分の人生は、ちょうど流れの中に漂う藁くずのような人生となって、人間の生命の内部光明が消えてしまうということをしんから思わなきゃいけないんだ。
失望や落胆をしている気持ちのほうを顧みようとはしないで、失望、落胆をさせられた出来事や事情を解決しようとするほうを先にするから、いつまでも物になりゃしない。
つまり順序の誤りがあるからだめなんだ。いいかい、ここのところをしっかり心得ておくんだよ。
(『心に成功の炎を』 390頁)

天風の言葉を長々と引用したのは、実のところ、レッズ戦ダブルヘッダーの間の検査で、ケガが判明した大谷翔平について考えたからです。2試合目でDH 出場した大谷はライト線にヒットを放ち、俊足を飛ばして2塁を陥れました。そのあとセカンドベース上で、レッズの選手と楽しそうに話を交わしている様子が映し出されていましたが、そのとき大谷じしんが靭帯損傷の結果を知っていたというのには驚きました。

大谷翔平は中村天風の愛読者であることは知られていて、誠に勝手ながら心のなかでは同門のごとき存在だったのです。そのこともあってか、大谷の笑顔を見ていて真っ先に思い浮かんだのが、先述の天風の言葉でした。

今の苦境からどう脱出するかや、選手生命をどうやって長くするかを考えることは、とても大切なことです。しかし、その前にしっかりと順序を誤ることなく、大谷翔平はみずからの心を整えていたと、私は思いました。


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