犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

紅炉一点雪

2018-01-08 12:34:41 | 日記

初釜に招かれ、本年初のお茶席となりました。お席の掛軸は「紅炉一点雪」です。
真っ赤に燃え盛った炉の上に、一片の雪が舞い落ちては、一瞬のうちに溶けてしまう。そのはかなさを語っています。
『碧眼録』には次のように記されています。

荊棘林透衲僧家 紅炉上如一点雪
(荊棘林を透る衲僧家、紅炉上一点の雪の如し)

大意は次の通りです。
修行僧が、荊棘林(イバラ)の林を通っても、紅炉上の一点の雪のようにいっさい痕跡を残さない。
イバラの道を通って、傷だらけになって出てくるというのは、修行が足りないのだ。修行にあっては、紅炉上の雪のように徹底して身を焼き尽くし、次の瞬間には痕跡すら残していない、それが修行の到達点なのだ。

一瞬のうちに消え去ってしまうのは、次々に降りかかる煩悩であって、修行僧は「紅炉」に見立てられているように解してしまうところですが、修行僧が例えられるのは「一点の雪」の方です。つまり、修行僧自身は惜しげもなく消えてしまうのです。このあたりの解釈が難しい。

こんな話も残されています。
永禄四年九月十日の早朝、朝靄を突いて武田信玄の本陣に単騎で突入した上杉謙信は、床几に座す信玄に向かってこう言って切りかかります。
「如何なるか是れ剣刃上の事」
信玄は泰然自若として「紅炉上一点雪」と答え、そのまま鉄扇で振り下ろされた刀を受け止めます。

まさに一刀両断されようとするその心持ちはどうだ、と問いかけられて、信玄は生への執着は一切ないと答えたというのです。むろん、後世の脚色でしょうが、瞬間に消えてしまう雪と、今まさに死に直面している自分と重ねて考える、戦国武将の心持ちは正しく伝えているのだと思います。

この今という瞬間の私は、宇宙の存在をも成り立たせうるかけがえのない私であって、昨日の私とも、将来の私とも違う。これらすべての私を「私」という一語で一括りにしてしまうけれども、かけがえのない「この私」は一瞬にして消えてしまう。
そのことを腹の底から合点していれば、「私」という一語で一括りにされた立場からみた、「かつてこんな非道いことをされた」とか「将来こんな恐ろしいことが起こったらどうしよう」などという心配ごととは無縁なはずだ。イバラの道を通った修行僧がケロリとしているような境地に立てるはずだ。
冒頭の禅語をそのように解釈しました。

それにしても、真っ赤に燃える炉の赤と、そのうえに静かに降る積む雪の白の、色の対比の美しさ。その美しさを感じるのは一瞬で消える「この私」であり、その心持ちを忘れないように想起するのも、その瞬間の「この私」です。「この私」は美と覚悟において絶えず生き直されるのだ、そのようにも解しました。

コメント (1)
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松無古今色

2018-01-03 12:49:26 | 日記

床の間に「松無古今色」(松に古今の色無し)の掛け軸をかけ正月を迎えました。
松には古葉、若葉の入れ替わりはあっても、季節を通じてその翠を保ち、年月を経ても変わることはありません。変わらぬ松の翠を、変わらぬ家族の安寧、親しいひととの変わらぬ交誼などと重ね合わせて、将来に想いを馳せるのです。
しかしながら、この語は対句をもって表現されます。

竹有上下節
松無古今色
(竹に上下の節あり、松に古今の色無し)

上句の「上下の節」とは、普通、儒教的な礼節のことを指していると言われます。そして、上下の区別のような世の中を成り立たせるための約束事がありながら、そうやって立ち上がる竹という命の節の上下に差別はなく、松の変わらぬ翠のような生命を輝かせているのだ、というように解釈されます。
そのように解しても十分に含蓄のある言葉ですが、竹の節を礼節ととらえるのではなく、「人生の節目」ととらえる玄侑宗久さんの解釈が、私は好きです。

自分にとっての大きな節目。たとえば親の死。自分の入院。大切な人との別れなど。そんな人生上の節目は、成長途上にどうしても必要な試練と思える。そういった節があるからこそ柔軟に曲がれるわけだし、しかもそこからしか枝は生えない。哀しく辛いとき節ができるほどに悩み苦しめばこそ、新しい枝がそこから生えるのではないだろうか。
(中略)
風も、別れも、あるいは自らの病気も誰かとの死別も、全て「希望」と共に受け容れることで佳いご縁になるのではないか。
因果律だけでは理解できない突然の出来事も、そうして受け容れる人こそ君子なのであり、そこにこそ涼しい風が吹き渡るのではないだろうか。(『禅語遊心』ちくま文庫 110頁)

自分の思いとは無関係に人は行動するもので、こんな間尺に合わない話はないという出来事に人生は満ちています。不慮の事故による大切な人との別れなど、どうしたって納得できないことでしょう。いずれ誰かがどこかで辻褄を合わせてくれることなど決してない、どうしようもない不条理に満ちているのが人生です。

それでも、そういうことを全て含めて「希望」と共に受け容れることができるのならば、人生の景色は変わって見えるはずです。
そうして見た松の古木は、深い翠をたたえており、わたしはこうして希望とともに生きていると語りかけてくるのです。

そこまで考えて、こんな話を思い出しました。
アウシュヴィッツから奇跡的な生還を果たしたフランクル博士は、余命わずかでありながら、収容所の中で希望を失わなかった女性のことを記しています。彼女は病室の窓から見えるカスタニエンの樹が、こう話しかけてきたと述べています。

私はここにいる―私は―ここに―いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ。

諸行無常を腹の底から徹底して合点し、どんな不条理にも心折れることなく、そうして深い翠をたたえていたい。年頭にあたりそう思います。


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変わるための正月

2018-01-01 01:00:43 | 日記

玄侑宗久さんによると「正月」とは、もともと修正する月という意味あいで、そう呼ばれたのだそうです。
絶えず変わりつつ変わらない人生は、変わらないことによって歪みを溜め込むことになります。昔のひとはその歪みを修正するタイミングを、年のはじめとしました。年のはじめの心構えは、したがって、去年までのつつがない反復を確認するのではなく、今まで積み重なった悪弊を、思い切って振り払おうという意気込みであるはずです。

生命の38億年の歴史は、福岡伸一さんによれば、エントロピー増大の法則と対峙するものでした。老廃物の蓄積、加齢による酸化、タンパク質の変性、遺伝子の変異といったかたちで襲いかかるエントロピーの増大は、放っておくと生命の死をもたらします。
生命は秩序の崩壊を食い止めるために、頑丈な鎧で身を包むという方法をとらず、むしろ逆の方法を選択しました。自らを絶えず分解し、更新して、エントロピー増大のスピードを追い越して再生するという、捨て身の逆転技を選びとったのです。これが、福岡さんのいう「動的平衡」のダイナミズムです。

動きつつ、釣り合いをとるという生命の知恵は、年のはじめの節目にこれまで溜まった歪みを修正しようという心構えにも反映されているように思います。
しかし、歪みを修正するということが、具体的にどのようなものかというと、これもまた難しい問題です。そもそも、歪みが何かを正しく把握できないからこそ、あとから振り返ってほぞを噛むような失敗をしでかすのです。

カーナビを例にとって考えてみましょう。
まず目的地を設定し、望ましいルートを選択肢の中から選び、ナビをスタートさせます。ところが道半ばで、どうしても途中の渋滞状況やゴール地点のことが気にかかって、ナビの進行方向に画面を進めてみたり、目的地周辺の状況を確認したくなります。
そうすることで、いろいろな情報は入ってきますが、一番大切な目的地に向かうという行為そのものが、おろそかになりがちです。今走っている周りの状況を瞬時に正しく認識できなくなることも起きることでしょう。福岡さんの言い方を借りれば、溜め込んだ情報のごみが整理できず、身動きが取れなくなっている状態です。
そういう時にはカーナビの「現在位置」ボタンを押せば、「今」に意識を取り戻すことができます。今走っている道路状況に注意を集中させて、前後を行く車の速度や横断歩道を渡る人の表情も視野に入ってきます。ひょっとすると「目的地」を設定しなおす余裕すら生まれるかもしれません。

進行方向や目的地周辺のいろいろな情報を画面に表示させるのはやめて、「現在位置」ボタンを押すこと、さしあたって常に変化する「現在位置」に意識を集中すること、これも年のはじめの修正のあり方でしょう。
修正することをいとわぬ、新しい心のもとに「正月」はやってきます。


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