犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

朝三暮四

2017-08-22 00:37:49 | 日記

『列士(皇帝)』や『荘子(斉物論)』に見られる故事に「朝三暮四」があります。
宗の狙公という猿好きな老人が、飼っている猿にトチの実を与えていました。ある日、「朝に3つ、暮に4つ実をやろう」と言うと、猿は少ないと言って怒りました。そこで、狙公は「朝に4つ、暮に3つやる」と言うと、猿は納得したという話です。
結果は同じなのに、表面的な利害にとらわれるのは浅はかなことだ、というのが故事の教訓なのですが、実は人間の「意識」というものを端的に説明する話でもあるというのです。

養老孟司さんと名越康文さんの対談『「他人」の壁』(SB新書)のなかで、養老さんは人の「意識」が動物の世界から遊離してしまったのは、「同じ」という能力を持ってしまったからなのだと述べています。人間は「朝4つ+夜3つ」と、「朝3つ+夜4つ」はイコールであると考えますが、猿にはこのイコールという考え方ができません。
4+3→7という計算はできても、左辺と右辺とがイコールであるという理解ができないのです。4+3はどこまでも4+3であって、7と置き換え可能だという理解には至りません。
アメリカの学者が、我が子とチンパンジーとを同時に育てて観察したところ、人間の子は4歳頃になると相手の心を推測して、相手の立場に自分を置いてものを考えるようになりますが、チンパンジーには決してそのようなことは起こりません。
「数」の概念で括ったもの、「食べ物」という概念で括ったもの、これらが置き換え可能な「同じ」ものという理解がなければ、相手の立場に身を置いて考えることができないのです。

人間が言葉を生みだし、言葉によって括られたものを「同じ」と意識することで、人と人との共通了解が生まれ、立場を異にしても「同じ」ものは「同一であるべし」という道徳の起源へとつながります。
さて、養老・名越対談が刺激的なのは、この人間の能力を賞揚するのではなく、まったく逆に我々を閉じ込める「壁」と捉えてそこから脱するための道しるべを示してくれるからです。表題の『「他人」の壁』とは、常に他人と同一基準によって測られることの息苦しさを指しています。
養老孟司さんは次のように述べています。

内閣支持率みたいに、自分への評判を定期リサーチして気をもんでいたら、80年の一生なんて、あっという間に終わるでしょうね。これほどの時間の浪費はない。当然、思うように成果が上がらないから、余計に必死になって評価を上げようと悩む。そうなってしまうと、もう本当に地獄なんですよね。

「同じ」と考える能力は、社会を成立させるための基礎であるかもしれませんが、そのための約束事のようなものでしかないのです。その約束事にがんじがらめに縛られることに私たちにはどうしても違和感を感じることがあります。狙公の猿が朝の4つのトチの実に惹かれたことは、単に嗤うべきことではないのかもしれません。
人生にはわからないことが山のようにあって、そのわからないことに興味を持ち続けることで、他人目線ではない自分だけの人生の絵が描けると養老さんは言います。
しかし、違和感を持ち続けること、その違和感に興味を持ち続けることは、人生に大きなストレスを抱えることでもあります。本書の中で最も印象的だったのが、養老さんの次の言葉です。

僕がよく思ったのは、「俺は世直しのために生まれたわけじゃねえ」ってこと。もう1つは、「世間は俺より前からあるんで、俺の都合でできているわけじゃねえ」って。その開き直りって、すごく大事なんです。だけど、違和感はあるんですよ。違和感を抱えたまま、そう自分に言い聞かせる。

違和感はやがて開花する宝物だけれども、それは世の中をひっくり返す爆弾という訳ではない。そして自分の違和感は世間から必ず遅れて顔を出す。そう考えれば、いらぬ気負いに押しつぶされることなく、自分だけの人生という作品を作り続けることができるのだ。養老孟司さんはそう教えてくれます。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする