犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

賢治の宗教

2015-10-14 22:08:34 | 日記

吉本隆明は旧約聖書のヨブ記を指して、ダビデやその他の受難とはまったく違う「生粋の受難」の問題であると述べました。
ダビデにしろ、モーセにしろ、その受難はユダヤ部族、種族あるいは国家というものの運命に関わるけれども、ヨブはそういうものとは何の関係もない一地方のお金持ちの話にすぎません。ヨブは何らの大義も背負わされることなく、ひたすらに残酷な仕打ちを受け続けます。
ヨブの3人の友達が耐え難い受難を強いる神について議論するうちに、神が現れて、驚くほど単調な言葉を発します。「わたしが天地万物を造った。おまえはわたしを恨んだり背いたりする資格はない。おまえたちの言っていることは、ヨブよりだめだ。ヨブに祈ってもらえ、そうすれば救われる」と。
実のところ、3人の友達も神にしてもあまり立派なことを言っているわけではありません。一番立派なことを言っているのは、受難するヨブなのです。

吉本隆明は宮沢賢治の宗教 に対する態度に、ヨブに通じるものを見ます。

宮沢賢治を日蓮宗からみれば、日蓮宗信者ということになるが、宮沢賢治自身は日蓮信仰とか法華経信仰とかにあてはまらない部分があります。そういうあてはまらない部分が、宮沢賢治の文学に流れているわけです。その流れていくものをつかまえて、もしそこに、信仰が象徴されているとすれば、それは法華経や大乗仏教の述べる教義をはみ出したところで、なお宗教的なものがあると理解しないと、なかなか理解できないと思います。(『宮沢賢治の世界』吉本隆明著 筑摩書房 178頁)

吉本隆明がよく指摘するのが『銀河鉄道の夜』に登場する「鳥を捕る人」に対するジョバンニの態度、そしてそれを見る賢治の姿です。
『銀河鉄道の夜』に登場する人物は、信仰者であったり、人生について真剣に考える人たちであるのに、「鳥を捕る人」だけが異質です。途中から列車に乗り込んできて、ジョバンニやカムパネルラに何かと話しかけたり、二人が持っている切符を見てはしきりに感心してみせたりして、軽薄な印象を与える人物です。ジョバンニたちも波長の合わない会話に辟易しているうちに、気がつくと「鳥を捕る人」は消えていました。
そしてジョバンニはこう考えます。「どうしてもう少しあの人に親切に物を言わなかったのだろう」と。
吉本はここに「常不軽菩薩品」に対する賢治の信仰の姿を見ます。

弱小な人に同情するのではなくて、誰でもが 日常体験していてあまり問題にしたがらないこと-ふっとかんがえると、「あらっ?」とおもうことをじぶんの倫理として気づくことが、人のもちうる最高の倫理であると宮沢賢治はかんがえるわけです。(前掲書 171頁)

日蓮の受難もダビデの受難も国家や民族を背負ったものでした。そうであれば、受難が苛烈であればあるほど、受難に耐える姿は雄々しく偉大に映ることになります。しかし、ここで受難は受難によって物語られるなにものかの道具立てに堕することにもなってしまいます。
倫理について語るとき、人は雄々しく偉大なものに仮託して語ろうとします。吉本は、宮沢賢治の倫理に対する態度がそれとはまったく違うものであると指摘するのです。

扉を開けて別の空間に移動するとき、いかにも重厚で大きな扉を想像してしまうと、その扉や扉を開ける行為は、すでに扉の向こうの世界の道具立てになり下がっています。吉本の言う「あらっ?と思うことをじぶんの倫理として気づくこと」は、いわゆる倫理一般とはまったく異なるものです。
賢治が最も輝く「教義をはみ出したところで、なお宗教的」である瞬間がここにあるのだと思います。


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