犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

なぜ死んだのか、その理由が聞きたい

2012-07-31 22:05:46 | 日記

次のエピソードも、恐山菩提寺住職代理 南直哉さんの著書『恐山』(新潮新書)からのものです。
菩提寺の宿坊に、50代年配の夫婦が泊っていたそうです。一泊の後、なかなか帰る様子がないので事情を聴くと、「イタコさんに会えなかった」と答えます。

恐山のイタコとは、恐山に出張営業をしている個人事業であり、いわば縁日の出店のようなもので、南さんとしてはイタコが口寄せをするのを拒むのでもないし、参拝者との仲介をするわけでもない、不干渉の立場を貫いているのだそうです。

南さんが、夫婦に「明後日は土曜日なので来るはずだ」と伝えると、それではもう2泊しますと言うので、詳しい事情を尋ねることにました。
夫婦がポツリポツリと語るところによると、3年前、夫婦とその長男が出かける用事があり3人がそろって玄関を出て、夫婦が玄関のかぎを閉めたりしているうちに、長男だけが門の外に出た。そのとたん、暴走してきた車にはねられて死んでしまったのだそうです。
その後、ご主人は強度のうつ状態に陥り、一歩も外に出られなくなったといいます。3年の月日がたち、心持も変わってきたようなので、奥さんが「恐山まで息子に会いに行こう」と提案して、宿坊に宿泊するに至ったという説明でした。
以下、原文を引用させていただきます。

「和尚さん、私らみたいなものには何もわからないのですが、死んだ者をいつまでも想ったり悲しんだりしていると、それが邪魔になって死者が成仏できないというのは本当でしょうか?」と尋ねてきました。
しばらくは言葉が出てきませんでした。答えに窮していると、旦那さんが「あなたの話は全くもってもっともだが、私はとにかく息子に会って、何で死んでしまったのか、それだけが聞きたい」と訴えてきたのです。
なぜ死んでしまったのか、その理由が聞きたい。
冷静に考えれば、そこに理由などありません。門を出たところで、暴走した車に轢かれてしまった。酷ですが、それだけです。理不尽な死です。それは分かりきったことです。
ところが旦那さんが言いたいのは、そういうことではない。なぜあのとき、あの場所で、他の誰でもなくて、自分の息子が死ななきゃならなかったのか。なぜ私たちから息子が突然奪われなければならなかったのか。それを知りたい。
でも、それは絶対わからないことです。
私は声が出なかった。慰めの言葉も見つかりませんでした。(前掲書72頁)

2日後、宿坊のロビーで南さんはこのご夫婦に声をかけました。イタコさんには会えましたかと訊くと、ご主人は「イタコさんにはありがたい言葉をかけていただきました」とだけ答えたそうです。なんどか言葉をかけても、イタコについては同じ返事を繰り返すだけで、何を話してくれたのかは教えてくれなかったそうです。また「もうちょっといて、修行のまねごとか何かをさせていただいて、息子のことを考える時間がほしいと思いました」と、いくぶん生気の戻った目で語ってくれたといいます。

このご主人にとってみれば、亡くなった長男は自分を初めて「父親」にしてくれた存在です。言い換えれば、そのようなかたちで認めてくれた存在でもあります。
この関係自体は息子さんが亡くなった後でも変わらないため、残された生者だけがそれを抱え込むのはしんどいことです。そこで「死者にその関係性を預かってもらう」場所が必要なのだと、南さんは言います。
恐れと懐かしさのないまぜになった死者の輪郭をはっきりさせて、自分との距離を作ってくれるものが、お墓であったり、位牌であったり、イタコであったりする。そのような宗教の仕掛けが必要なのだと、南さんは語ります。


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死者に預けているもの

2012-07-27 21:09:26 | 日記

霊場恐山の菩提寺代理住職である南直哉さんのところには、死者を供養するために多くの人が訪ねてきます。南さんは著書『恐山』(新潮新書)のなかで、それらの人たちと対峙しながら、死者とどう向き合っているのかについて、自身の僧侶としての苦悩を飾ることなく吐露しながら語ってくれます。

多くの重たいエピソードのなかで、心因性の突発性難聴に苦しむ初老の婦人の話が印象的です。
彼女は、さる名家の人格高潔・頭脳明晰な父と、良妻賢母の母のあいだに生れた子どもでした。三人きょうだいの長女で、小学校に上がるか上がらないかの頃に母が病で他界します。父親は再婚せず、彼女を徹底的に「主婦」として仕込み、中学に入るころにはお手伝いさんに指示を出すほど家庭内のことを仕切るようになったそうです。地元の短大を卒業した後に、父親の連れてきた婿と結婚し、自分の家庭と父親の両方の面倒をみる生活をしばらく続けたと言います。30年後その父がアルツハイマー病になり、介護を10年続けたのち父は他界しました。そののち突発性難聴に苦しむようになったというのです。
南さんが老婦人に語りかけると、彼女は堰を切ったように感情を表に出します。以下、原文を引用させていただきます。

「そうすると奥さん、今日はこの寺までお父さんを探しに来たんですか」
するとそのご婦人は、ウワーッと机に突っ伏して泣きはじめました。身をもむようにして泣く、というのを私は初めて見ました。十分ぐらい手がつけられませんでした。ようやく落ち着いて「どうもお見苦しいところをお見せしました。ご住職が私より年寄りだったら、もっとよかったのに」と、こう言った。
この女性は実感として、「あなたはあなたとしてそこにいてくれるだけでいい」と言われた記憶と体験がなかったのでしょう。だから泣いている最中ずっと一つのことしか言わない。
「何で私ばかり」
「何で私ばかり」
それに続く言葉が何かわかりますか。
「何で私ばかり、甘えることができなかったのか。何で私ばかり、子ども時代がないのか」ですよ。(前掲書 61頁)

この老婦人の場合、可哀そうなことに「そこにいてくれるだけでいい」と言われた感覚が欠落していたのでしょう。しかし、人格形成の黎明期、幸せな父親と母親に無条件に受け入れられた至福の記憶も残っていたはずです。だからこそ、その記憶をたどって「身をもむように」泣かざるを得なかったのではないでしょうか。わざわざ父親に会いに来たのではないでしょうか。

南さんは「死者の前に立つとき、自分の中の何かを死者に預けている、という感覚がある」と語り、死者を供養することについて次のように述べています。

一体、私たちは死者に何を預けているのか。
それは欠落したものを埋める何かだと私は考えています。
死者を想うと、どこか懐かしい感情が喚起されるでしょう。それは欠落したものが死者を前にして一瞬埋まる、と感じたために生じるものではないでしょうか。
(中略)それは好意であり、愛情であり、優しさであり、共感であり、尊敬であり、結局のところは、他者から自己の存在を認められることです。欠落を埋めるものはそれなのです。死者はもはやそれを与えることはできません。が、忘れられない死者とは、かつてそれを私たちに与えた人です。しかも決定的に。だから、そのことが、懐かしさとして想起されるのです。(前掲書128頁)

南さんは死者の正しい供養の仕方について質問を受けるたび、決まって一番の供養は「死者を思い出す」ことであると答えるのだそうです。死者は彼を想う人のその想いの中に厳然と存在します。「その死者を想う自らの気持ちを美しいものとすることが何よりの供養ではないでしょうか」そう語ることで、供養の仕方に不安を抱いていた人たちは安心することができるのだそうです。


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我を忘れること、我にかえること

2012-07-01 14:50:47 | 日記

河合隼雄さんは著書『しあわせ眼鏡』(海鳴社 1998年)で、子ども劇場の主宰者から聞いたエピソードをもとに、興味深い指摘をしています。
それによると、最近の子どもたちは劇を見ても、やじを飛ばしたり、悲しい場面のときに妙な冗談を言って笑わせたりして、劇の流れを止めようとするのだそうです。ちょうどクライマックスに達するのを妨害しているようだと言います。
しかし、劇団の主宰者をより落胆させるのは、この子どもたちの態度を見て、その子の親たちが「今日は子どもたちがよくノッていましたね」と喜んでいるのを知ったときです。

舞台こそが世界のすべてであると信じ込むのでもなく、逆にこれはしょせん芝居に過ぎない、と斜に構えてしまうのでもない、「ちゃんとした大人」の態度を身につけることについて、前回触れてみました。
前述の劇場主宰者の話を聞くと、そもそも「ちゃんとした大人」になることそのものを、大人たちが阻んでいるように思えます。むろん「子どもたちのノリ」を喜んでいる当人は「大人」はないので、正確には「大人になりきれない子どもが、子どもをちゃんとした大人になることから妨げている」と言うべきなのでしょうが。

人生という舞台の上で大人でいる、ということは、舞台の上で「善きこと」が起きることを知っているからこそ可能なことです。舞台の上で素晴らしいことが起きているとき、われわれはそこに没入し、我を忘れる体験をして、再び我にかえるときにその体験を吸収します。
河合さんは、この我を忘れるという貴重な体験は、放っておいても実現するのではないことを、前のエピソードに続けて指摘します。

「我を忘れる」ことは、しかし、怖いことだ。これができるためには、自分を投げ出しても「大丈夫」と抱きとめてもらう経験を持っていないと駄目である。死と再生の繰り返しが人間を成長させるという考えから言うと、このような身の投げ出しと受けとめによって、人間は強くなってゆき、「我を忘れる」体験を自分のものにすることができるのだ。
ところで、最近の子どもたちは、このような身の投げ出しと受けとめの経験が少なすぎるのではなかろうか。このような受けとめは、簡単に言ってしまうと「まるごと好き」と誰かに言ってもらうことだ。(河合 前掲書)

我を忘れることと、我にかえること、この視点シフトの運動こそが自省するということであり、知性の別名であるとすれば、この視座の運動を支えるものは、みずからを「まるごと」認めてもらうという経験にほかなりません。
われわれは、人生という舞台の上に、事前の承諾もなく予備知識もなしに、ポイと置いておかれたような存在です。そう考えるならば、この舞台の上に置かれたことそのものを、何の条件もなく認めてもらう経験が、成長や知性や、ひいてはもろもろの善きことのスタートであることは、腑に落ちるように理解できます。


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