犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

人生は「答え」だ

2011-07-16 13:48:31 | 日記

精神科医のV.フランクルは「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」という、問いかけのコペルニクス的な転換をなしとげることで、自らと身近な同胞をアウシュヴィッツにおける最大の危機から救い出すことに成功しました。

一方、フランス軍兵士として捕虜になったために、ユダヤ人でありながら、強制収容所に送られることを免れたエマニュエル・レヴィナスは、次のように述べます。それは同時に強烈な自責の念にかられた言葉でもありました。彼自身には同胞たちの受難に対してなんら咎め立てされる行為がなかったにもかかわらず、です。

飢えている者には食べ物を与えなさい。裸で行く者には服を着せなさい。乾いている者には水を飲ませなさい。身を寄せる場所のない者には宿を貸しなさい。人間の物質的側面、物質的生活、それが他者について、私が配慮すべきことなのです。他者について、私にとって深い意味のあることなのです。それが私の「聖性」にかかわることなのです。

レヴィナスは、死者に対する「責任」について繰り返し述べます。彼にとって死者とは絶えず問いかけを発するものに他ならなかったからです。
フランクルが「人生が何をわれわれから期待しているのかが問題だ」というとき、それはわたしが何かを期待しながら問いかけるのではなくて、誰かからの不意の問いかけに答えるようなものであるはずです。そうでなければ、わたしの期待通りの問いかけを人生が行ってくれない限り、わたしは容易に絶望してしまうはずだからです。そして、この不意の問いかけを発し続けるのが、レヴィナスにとって収容所で亡くなった死者たちでした。

今回の震災からの復興に寄せて、いろいろな人が感想や未来への展望や困難に対処する心構えを述べています。そのなかでとりわけ印象深かったのが養老孟司さんの次の言葉です。


私はいつも、人生は「答え」だと言うようにしています。
多くの人は逆に考えています。人生は「問い」ではないのに、若いうちは特に勘違いをしている。だから「人生とは何か」「生きるとは何か」と考えるのです。
この年になってわかるのは、今の自分がこうしてあること自体が、何かに対する答えだということです。それも「こうやったからこうなった」という単純な答えではない。自分がいままでやってきたこと、社会とかかわってきたことの結果として表にあらわれているのが、ただ今現在の自分である。いろんなことに反応してきた結果が今の自分です。
それを何かに対する答えだと、私は表現しています。あなたがいまこうしてここにいる。そのこと自体が人生という質問の答えなのです。(『復興の精神』新潮社 2011年 33頁)

養老さんは今回の震災を機に、「精神的な復興需要」のようなものが生まれる、と述べます。それは、問いを発するなにものか(それはおびただしい数の死者かもしれませんし、放射能の影響を免れえないまだ生れぬ子供たちなのかもしれません)が現れて、答えを返そうとする心構えが生まれるということ、でもあると思います。
それらの問いに対して、「いまこうしてここにいる、そのこと自体が答えだ」と、きちんと答えを返せるようになること、それは「責任」の語の本当の意味である「応答可能性(responsibility)」をとりもどす復興活動なのではないでしょうか。(responsibility)」をとりもどす復興活動なのではないでしょうか。士


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