犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

美しいと感じること

2017-05-21 11:33:45 | 日記

防波堤ごしに、初夏の陽光に輝く波頭が見えて、海原の明るい青が活力に満ちた季節の到来を告げています。見飽きない青色のグラデーションは、体の奥底に呼びかけるような不思議な力を秘めているように感じます。
なぜ水は青く見え、ひとはそれを美しいと感じるのか。福岡伸一さんが『動的平衡 ダイアローグ』(木楽舎)のなかで、興味深い説明をしています。

光のスペクトラムを、虹を例にとって考えると、一番外側は赤、次に橙、黄、緑、青と並んで一番内側に紫がきます。内側の光ほど波長が短く、エネルギーも強いので、青はエネルギーの強い光と言えます。
厚い水や空気を通して遠くまで到達する青色を感じることで、人間は水のありかを察知してきた、というのです。
順序としては、次のように考えるのが正しいのでしょう。
水がたまたま青い光という強いエネルギーを発しており、その強いエネルギーを光の感覚器官・視覚でいち早くとらえ、「よきもの」「美しいもの」と感じるようになった。そのことで水の存在を察知する機会を増やし、人間は生存の確率を高めてきたのだ、と。
あるいは、美しさの感覚とは、命を支えてくれるものに「同期」する性質そのものであるととらえるべきでしょうか。

青の内側にある紫のさらに内側が紫外線で、人間の目には見えません。紫外線はエネルギーが強すぎて生物に害を及ぼす光です。紫色が聖性や魔性を象徴することのあるのは、このことに由来するのかもしれません。
福岡さんの指摘で面白いのは、青が生存に必要な色であるだけではなく、それ以上踏み出すと危険な色、生と死を分ける境界の色でもあるという点です。都会の夜にはLEDの青い光が溢れているけれども、その光が霊界を思わせる冷たい印象を与えるのも、それが原因なのかもしれないと福岡さんは言います。

強いエネルギーに対する肯定的な感受性と、同時に「強過ぎる」ことに対する警戒感と、この両方を備えることで人間は生物として生存してきました。そしてこれが美的感覚に結びつくことで、われわれの判断や行動を総合的に制御する知恵を授けてくれたのだと思います。

さらに、福岡さんは『動的平衡 2』(木楽舎)のなかで、二酸化炭素濃度の上昇と気温上昇との因果関係が、科学的には証明されていないことを引き合いに出し、われわれがどう行動すべきかの判断について「判断のレベル」の移行をはっきりと認識することの重要さを説きます。
科学的には証明されていない問題があって、その問題に対処する行動がきわめて重要であると考えられる場合、どう行動す「べき」かは科学の限界の問題でもあります。ここで判断のレベルは、真偽を見極めるレベルから、善悪を見極めるレベルへと移行します。しかし善悪の判断を多くの人に説得するために、いきおい、効率や幸福の最大化を基準にしてしまうことになります。そこで、次の判断のレベルに至るのです。

私たちは「真か偽か」という科学的な議論から離れ、「善か悪か」という哲学的な判断を迫られることがある。しかし、この場合にも私たちは部分しか見ることができない。そして部分の効率や幸福を求めると、逆にみんなの効率や幸福にはつながらないことも少なくないのである。
では、いったい、私たち人間は何を判断基準にして生きていけばいいのだろうか。これはもう一義的に言えるようなテーマではないと思う。ただ、個人的な感想として言えば「真偽」「善悪」の次のフェーズとして「美しいか、美しくないか」という「美醜」のレベルがあるように感じている。(『動的平衡 2』 247頁)

真理や認識をめぐる「純粋理性」でもなく、規範をめぐる「実践理性」でもない、生命存在としての「総合力判断」が可能であるとして、カントはそこに「生命の経験」としての美の力を置きました。
強さを良しとしながらも、同時に「強過ぎる」ことに慎重な「判断力」の源を、美の力と呼ぶことができます。そして美の力が生命の経験の産物であるとすると、美的判断とは生命の経験、いのちの歴史に対して謙虚であることを、われわれに迫るものではないでしょうか。
生命の経験に謙虚に耳を傾けなさいと呼びかける、それは特別な知恵なのだと思います。


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1000の風

2017-05-09 01:05:16 | 日記

いまでは知らぬ人のない「千の風になって」が、新井満さんによって訳詞、作曲されたのが2001年のことでした。当初、新井さんは私家版として30枚のCDをプレスし、知人に配布していたのだそうです。この曲が新聞コラムに紹介されて、少しずつ話題になり、やがて秋川雅史さんの歌唱などで多くの人に親しまれる歌になっていきました。

さて、「千の風になって」が生まれる6年前、この作者未詳の詩は翻訳され、美しい写真を添えて小さな本が出版されました。『あとに残されたひとへ 1000の風』(南風椎訳 三五館 1995年)です。
この詩のどこか仏教的なところと、各節に配された写真の美しさに魅了されたのが、心理学者の河合隼雄さんでした。サンフランシスコで開かれた国際箱庭療法学会のワークショップで講演の締めくくりに、河合さんはこの詩を紹介しています。
ワークショップが終わり、サンフランシスコ湾を臨む友人の夫妻宅に泊まった河合さんは、『1000の風』を画家である夫君にプレゼントして大いによろこばれます。ところが翌朝、思いもかけず夫君の弟の訃報に接することになるのです。そのときの様子を河合さんは次のように記しています。

三人(ブラッドウェイ夫妻と河合さんー引用者注)で居間に集まったが、それまでなかなか連絡がつかなかったブラッドウェイ氏の妹さんより電話があり、彼はそちらのほうに行った。残された私と夫人とは、アメリカの葬儀の話となり (中略) 私が日本には密葬などという習慣もあると説明していると、彼女の手が、つとのびて、私の話を制した。
すると、夫君が妹さんに対して、電話口で「1000の風」の詩を読み聞かせているのが聞こえてきた。「私の墓石の前に立って/涙を流さないで下さい」。私たちは黙って耳を傾けた。
しばらくして夫君の声が途切れ、続かなくなった。夫人はそっと立ち上がり、電話のところに行き、詩の続きを読みはじめた。
「夜は星になり、/私は、そっと光っています」。夫人の声を聞きながら、私は身じろぎもせずサンフランシスコの夕暮の景色に見入っていた。夕暮の一瞬、すべてが紫色がかって見え、美しすぎるほどの景色であった。私はこの日の光景を一生忘れないだろう。
(初出「サンフランシスコの風」文藝春秋1996年 『出会いの不思議』創元こころ文庫所収)

すべてが紫色に染まってゆくサンフランシスコの夕暮れどきに、兄妹そして夫婦が風になった弟のことを詠っています。その光景は死別の哀れを誘うのではなく、美しすぎるものとして河合さんの目に映ったのです。
このエッセイは、「1000の風」による救いが日本語で記された、おそらく最初の文章だと思います。


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ロックフェラーの招聘

2017-05-07 10:03:58 | 日記

日清、日露戦争では軍事探偵として蛮勇を振るい、浪曲にもその活躍ぶりがうたわれた中村天風でしたが、太平洋戦争には終始批判的な立場を貫いたため、公安に睨まれる存在になっていました。要人に多くの弟子を輩出したとはいえ、敵国の将兵を特別扱いすることは、覚悟のいる行為だったはずです。
さて、天風が不時着したB29に載っていた飛行中尉を救った話には、後日譚があります。

GHQのアイケルバーガー中将が天風を訪ねた後ほどなくして、スター・アンド・ストライプス主催の、中村天風講演会が開かれることになりました。
この講演に、来日中のロックフェラー三世夫妻が同席しており、天風の話に深く感銘を受けた夫妻は、いっしょに食事をしたいと申し出ます。
ウォール街に君臨するロックフェラー家直系の大富豪であっても、悩みは尽きないのだと、食事の席で夫妻は天風に訴えるのでした。

夫人がため息をついて述懐します。
「悩みは、主なものでも百ぐらいあります。一番目が、自分たちがどれくらい財産を持っているのかわからないこと。二番目が、いつ死ぬかわからないことです」
そして、こう続けるのでした。
「いくら財産があろうと、病だけは予防できないで困っていました。ところが、あなたの講演を聞いて安心できる気持ちになりました」

講演のなかで天風は、心の大掃除をすることの大切さを説いていました。
「心の中を掃除しないで、汚れるままに放置しておくと、たとえどんなに学問をしようと、どんなに財産ができようと、毎日が少しも安心した状態で生きられないものだ。はた目には羨ましく見えても、本人にしてみれば惨憺たる人生でしかないのだ」
心のなかのネガティブな要素を掃除しないでいると、充実した人生を送れないばかりか、病さえも呼び寄せてしまうこと、そうならないための具体的な方法を、天風は講演で語っていました。その話が実践的であることに夫妻はいたく感銘を受けたのです。

ロックフェラー三世はその後、天風をロックフェラー財団に再三招聘しましたが、天風は日本での活動を最優先したいという思いから、これに応じることはありませんでした。
巨万の富を築いても、心をいつも掃除して負債を背負いこまないように、ロックフェラー夫妻にアドバイスして、丁重に断り続けたのだそうです。


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東京大空襲もうひとつのエピソード

2017-05-04 10:13:57 | 日記

昭和20年5月25日の3回目の大空襲によって東京は壊滅状態に陥ります。その明け方、対空砲火によってB29が東京郊外に不時着しました。

その搭乗員であるアメリカの飛行中尉は、近所の農民によって散々に暴行を受けたうえ、交番に連れて行かれました。荒縄で縛られ目隠しをされたアメリカ将校を、巡査部長が日本語でしきりに怒鳴り立て、派出所を取り囲むように、もう少し殴らせてくれと農民たちが騒ぎ立てていました。
そこに、たまたま疎開していた中村天風が通りかかります。
天風は縄を解き目隠しをはずすよう巡査部長に命じたうえ、一番上等のお茶をアメリカ将校にいれてあげるように指示しました。憲兵隊隊長が天風の弟子だったので巡査部長は逆らえないのです。
そして派出所を取り囲んでいる群衆に向かってこう呼びかけました。

「おいおい、何を騒いでるんだ。今聞いてるてえと、中に入っている人を出せというが、この中に入っている人はね、アメリカの飛行中尉だ。士官なんだ。外へ出しゃあ、おまえたちが半殺しの目に遭わせちまうだろうけれども、そうしたらおまえたちも懲役に行くぞ。こういう人の身柄を自由にする権利は軍隊にあるだけだ。だから、私はあんた方に聞きたい。あんた方の中で、息子が戦争に行っている者があるなら手を挙げろ。」

ほとんどが手を挙げています。

「それじゃあいま手を挙げた人に聞くが、おまえたちの息子が戦地で、アメリカの人々にとっつかまってこういう目に遭ったとき、いいか、アメリカの人間がそこへわんさか集まってきて、袋だたきにする、半殺しにするといって、それをあとで聞いたら、おまえたち、うれしいか。
ええ?それがうれしいと思ったら、今ここに出してやるから、どうにでもしろ。けど、それが後に世界に伝わって、日本人は鬼よりも無慈悲だといわれたときに、名誉な話じゃないということを考えないか。引き取りなさい。忙しいお百姓の仕事をしているおまえさんたちがそこでわあわあ騒いだからったって、この戦争に勝てるもんじゃない。帰んなさい」

群衆を家に帰した天風は、知事に電話をし車をよこさせて、アメリカ将校を憲兵隊に連れて行きます。そして憲兵隊長にこう命じるのでした。
「たとえ本部からどんな命令がこようとも、おまえの手元にある間だけは不自由なく、お客様扱いにして、この人の一生のよい思い出をつくってやれ」
そうして、天風が流暢な英語で別れの挨拶をすると、アメリカ将校はあなたの名前を聞かせてくれと言います。それに天風はこう答えました。

「さっきから私はあなたとこうやって長い時間、おつき合いしているけれども、一度も私はあなたの名前を聞かないだろ。私はあなたの名誉のためにあなたの名前を聞かないんだ。国と国とは不幸にして戦っているが、人間同士、ここになんの恩も恨みもない。今、私があなたの名前を聞くということは、ジェントルマンらしくないと思うから、あんたも私の名前を聞くな。お互いにあった事実は、一生わすれようたって忘れられることじゃないんだから、今日の日に起こったこのアクシデントは、あなたの記憶のページの中にはっきりしたためておけばよろしい。私ももちろんそうする。そしてまた、長い月日の間、ふたたび会う機会が与えられたときに、大いに今日を昔語りとしようではないか。それまで元気でおれ。さようなら」

この将校はアメリカに帰っても、どうしてもこの出来事が忘れられず、スター・アンド・ストライプスの日本特派員記者を志願します。駐留軍のアイケルバーガー中将にその日の事実をそのまま具申し、GHQの力で天風にまでようやくたどり着きました。

アイケルバーガー中将から「一体あなたは何をする人なのですか。クリスチャンですか。クリスチャンでないとすると、どういうお気持ちで敵の将校をお救いなさったのですか」という質問を受けて、天風はこう答えたそうです。
「人間の気持ちです」

以上のくだりは『心に成功の炎を』(中村天風著 日本経営合理化協会出版局)に書いてあります。
天風の言葉をそのままお伝えしたく、長々とした引用になってしまいました。
若いときにこの話を読んで魂の震えるほど感動したのを覚えています。今、ふたたび読み返してみて、一朝ことあるときに、このように高潔に振る舞える大人がいるだろうか、という不安を覚えます。むろん自分を含めてのことですが。

コメント (5)
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