犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

中村哲医師逝く 3

2019-12-21 17:47:16 | 日記

中村哲さんは、その著書『医者、用水路を拓く』(石風社)のなかで、アメリカの空爆、タリバン政権崩壊後の「復興ブーム」を痛烈に批判しています。中村さんが亡くなった数日後に、アメリカ政府高官らが、軍事作戦や復興支援の失敗を認識しながら、国民に隠蔽していたとする内部文書がワシントン・ポスト紙によって公表されたのも皮肉な事実です。

中村さんは前掲書のなかで、現地技師の言葉を引いています。

カーブル以外は何も変わりはしないさ。外国団体が来たって、外人職員の給与で半分減り、テカダール(請負師)がしこたま儲けて支援金がなくなり、政府の有力者がピンはねする。涙金しか貧乏人には回って来ねえ。金持ちの外国移住と豪邸が増えるのが落ちさ。(88頁)

中村さんは、復興の欺瞞を指摘するのではなく、自分たちが「復興の範」を行動でもって示すことを「武器なき戦」と呼んで実行に移します。2003年3月19日、米軍のイラク攻撃の前日に、地方政府の要人、シェイワ郡長老会メンバー、PMS(ペシャワール会医療サービス)代表を集め、用水路建設の着工式を開きます。そこで中村さんは毎秒6トンの水を干ばつ地帯に注ぐと宣言するのでした。
そのときの様子を中村さんは次のように述べています。

我々の事業は、戦争という暴力に対する「徹底抗戦」の意味を帯びた。しかし、宣言にふさわしい力量があったとは言えない。この時、用水路関係のワーカーに指定した日本語の必読文献は『後世への最大遺物』(内村鑑三)と『日本の米』(富山和子)で、要するに挑戦の気概だけがあった。(前掲書 92頁)

中村さんは、近代的な機械力や技術に過度に頼らず、地元農民の手で作業ができ、維持や改修が可能な灌漑設備を目指して、故郷に近い筑後地方の水利施設を研究し、これをアフガニスタンの地に大胆に取り入れていきます。そして「挑戦の気概」だけからスタートした事業を、この日の宣言どおりに実現させるのです。

内村鑑三は『後世への最大遺物』のなかで、若い聴衆に向けて次のように語りかけています。君たちが後世に残すべくものとして「富」があろう。「事業」があろう。それらは自らを高め人を助ける立派な遺物である。しかし、これらは誰もが努力次第では遺すことの出来るものかもしれない。最も困難であって人を励ますことのできる最大遺物とは「勇ましい高尚なる生涯」ではないだろうか、と。
内村鑑三は、この勇ましい高尚な人生を歩んだ人の一例として、マウント・ホリヨーク女学校の創設者、メリー・ライオンの生涯を挙げ、彼女の女学生たちに向けた言葉を紹介しています。

他の人の行くことを嫌うところに行け。
他の人の嫌がることをなせ。

中村さんは、イラク空爆の前日に灌漑事業の着手を宣言し、これを現実のものにしました。内村鑑三の紹介したメリー・ライオンの言葉は、中村哲さんの生き方をそのままに言い表しています。
勇ましい高尚なる生涯でした。

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中村哲医師逝く 2

2019-12-07 23:50:53 | 日記

中村哲さんの『医者、井戸を掘る』(2001年)『医者、用水路を拓く』(2007年いずれも石風社)を読み返しています。逆境にあっても常に前を向き、周囲を鼓舞しながら成果を上げる中村さんは、滅多に弱音を吐くことがありません。

そんななかで「ただ訳もなく哀しかった」と述懐している箇所があります。内戦による人々の離村が灌漑工事を遅らせ、飲料水欠乏が病気の蔓延と家畜の死亡をもたらします。それがまた離村を生むという悪循環を繰り返して、灌漑事業が賽の河原に石を積む作業のように思えたときのことです。井戸を掘る作業がようやく途についた2000年のある日のことをこう記しています。

しばらく沈黙の後、再び砲声が聞こえ始めた。
「ワレイコム・アッサラーム、ご挨拶だぜ。金曜日(イスラムの休日)くらい休まなきゃ、バチが当たるぜ」
砲声の中、村人は黙々と作業に励み、ポンプが水を吐き出すたびに、鍋やバケツを手にした女子供が水場に群がる。中にはロバの背に革の水袋を載せた少年の姿がある。向こうの村から何時間もかけて歩いてきたという。
私はただ訳もなく哀しかった。「終末」。確かに、そう感じさせるものがあった。ふと時計を見ると、9月15日、アフガン時間午後12時45分、私の誕生日である。54歳にもなって、こんなところでウロウロしている自分は何者だ。ままよ、バカはバカなりの生き方があろうて。終わりの時こそ、人間の真価が試されるんだ、そう思った。(『医者、井戸を掘る』32頁)

訳もなく哀しい、それは灌漑事業が遅々として進まないことを指して言っているのではありません。54歳になった自分と「終末」を思わせる現状との折り合いが、どうしても付かないことを指しているのだと思います。異国の地で、折り合いの付かない現状とみずからの志とを、中村さんはどのように結びつけていたのだろう、そんなことを考えながら、ニュースを見ていると、中村さんと親交のあった歌手の加藤登紀子さんがインタビューに答えていました。

NHK NEWS WEB に、そのインタビューが掲載されていましたので、引用します。

(加藤登紀子さん)
とても印象に残っているのは、2009年のクリスマスイブに「じゃあ哲さんに電話してみようか」ということになったんですよ。ペシャワール会の人たちと皆で「哲さんに電話しちゃおう」って。電話して「もしもし、メリークリスマス」って私が言ったんですね。そうしたら、しばらく応答がないんです。遠いから、どうしたのかと思っていたら、しばらくたって「トキさん、僕ね、クリスチャンだよ、実は」とおっしゃったんですね。泣いていたなと、受話器の向こうでね。とっさに軽い気持ちで「メリークリスマス」と言ったんですけど、哲さんは泣いているなと思いました。その時に、クリスチャンだったけれどイスラム圏の人たちの中で大きな信頼を得て、彼らのために命を賭けている、その哲さんの心の中のいろんなことが伝わってきた気がしたんです。その時の一瞬の嗚咽している瞬間が忘れられないですね。

(井上二郎キャスター)
それは「つらさ」なんでしょうか。それとも、何か別のものがあったのでしょうか。

(加藤登紀子さん)
現地では「メリークリスマス」はないわけだから、虚を突かれたというか。いろんなことを根本から乗り越えて、そして人の命を助けなければならない。哲さんの根底にある決意のすごさが、一瞬にして伝わってきた気がしましたね。

2008年に伊藤和也さんが銃撃され死亡した事件を受けて、「もう一切危険なところに若者を行かせるわけにはいかない」と、自分一人で背負っていく覚悟を決めた時期に、その電話の時期は重なるのだと、加藤さんは言います。
中村さんは命の危険だけではなく、「哀しさ」もひとりで抱え込もうとしていたのだと思います。


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中村哲医師逝く

2019-12-05 00:33:16 | 日記

アフガニスタンで長年支援活動に携わってきた、ペシャワール会の医師中村哲さんが、東部ナンガルハル州ジャララバードで銃撃され死亡しました。活動拠点から25キロ離れたかんがい用水路の工事現場へ向かう途中だったのだそうです。

中村哲さんの著書『医者、用水路を拓く』を読んで、魂の震えるような感動を覚えたのが、つい最近のようです。2008年、農業支援に取り組んでいたスタッフがアフガン人運転手と共に武装集団に拉致され、遺体で見つかる事件が起きた直後、ペシャワール会は日本人スタッフを引き揚げましたが、中村医師は残って活動を継続し、今年11月に一時帰国したあと、29日に現地へ戻ったばかりだったのだそうです。
中村医師の現地に自分ひとりでも残って、アフガニスタンの衛生環境の整備と医療体制の充実に努めようという不屈の気概は、彼の著作を読めば痛いほど伝わってきます。

前掲書を読んだ直後に書いた、当ブログ(2010年)を再掲させていただきます。

中村哲さんの著書『医者、用水路を拓く』(石風社、2007年)は、ペシャワール会医療サービス(PMS)とアフガンの労働者たちが、さまざまな困難を乗り越えて用水路を拓くまでの6年間の記録です。
そのなかで、粛然とした思いで読まざるを得ないくだりが、中村さんの当時まだ十歳であった次男の死に至るまでの過程です。2001年6月にその子が脳腫瘍と診断されたとき、中村さん自身が脳神経の専門医であるにもかかわらず、アフガニスタンでの活動を続けざるを得ませんでした。2002年12月に様態が急変したため、中村さんは急きょ帰国することになります。
四肢の麻痺で体を動かせないその子は、中村さんの顔を見て「お帰りなさい!」と明るく目を輝かせます。しかし、やがて関節痛が高じて、普通の鎮痛剤が効かなくなり、我慢強い子が七転八倒するようになります。中村さんは日本では入手しづらいサリドマイドを、ペシャワールまでとんぼ返りしてまで手に入れようと考えます。PMSの仲間や他の医師の助けでようやく薬を手に入れたのが、その子の亡くなる2週間前でした。
息子の死に際し、「アフガニスタンの現地の今後も考え、情を殺して冷静に対処せねばならない」と考える中村さんは、その翌朝の様子を次のように記しています。

翌朝、庭を眺めてみると、冬枯れの木立の中に一本、小春日の陽光を浴び、輝くような青葉の肉桂の樹が屹立している。死んだ子と同じ樹齢で、生まれた頃、野鳥が運んで自生したものらしい。常々、「お前と同じ歳だ」と言ってきたのを思い出して、初めて涙があふれてきた。そのとき、ふと心によぎったのは、旱魃の中で若い母親が病気のわが子を抱きしめ、時には何日も歩いて診療所にたどり着く姿であった。たいていは助からなかった。外来で待つ間に母親の胸の中で体が冷えて死んでゆく場面は、珍しくなかったのである。

中村さんは我が子の死に接し、「空爆と飢餓で犠牲になった子の親たちの気持ちが、いっそう分かるようになった」と語るのです。
息子の死と、アフガニスタンの診療所外来で息をひきとる幼い子の死とを重ね合わせて、なおみずからをアフガニスタン支援に駆り立てようとする、志の高さに圧倒されます。

(ここまでが過去ブログの再掲です)

息子の死に臨み、感傷にひたる間もなく、アフガニスタンで息を引き取る子どもたちに思いを馳せるその情熱の源泉は、「志の高さ」という一言では語りきれないのではないか、今にしてそう思います。母親の胸のなかで寒さのために死んでゆく子どもたち、父親を心配させまいとして「お帰りなさい!」と明るい声を発してくれたわが子、その子どもらの姿に駆り立てられるように、みずからを奮い立たせたのではないでしょうか。中村医師を駆り立てたものを、その記録を通してもう一度思い描くこと、それが彼の地で倒れた勇者に少しでも近づく道ではないかと思います。

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