犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

さびしき極み君におくらむ

2021-09-12 13:01:19 | 日記

吾木香(われもこう)すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ
(若山牧水『別離』)

秋草の名を並べて上句とし、下句で「君」に語りかける歌の調べは、前回の馬場あき子の歌と同じです。
豊かな実を実らせることなく、やがて枯れてゆく秋草は、こうやってその名を連ねて詠むことによって、秋の寂寥感を目の当たりにさせます。下句で、馬場あき子の歌が早逝した母への思いを詠うのに対し、牧水は人妻、園田小枝子への切ない想いを詠んでいます。『別離』は、小枝子との恋を詠んだ歌集です。

牧水と出会った頃の小枝子は肺結核のため療養しており、そのはかない印象が「さびしききわみ」ワレモコウの暗紅色と重なります。牧水は相当の期間、彼女が人妻であることを知らず、秘密を打ち明けられない小枝子の表情の翳りに、いっそう不思議な魅力を感じたのでしょう。(なお、小枝子との恋については『牧水の恋』俵万智著 文春文庫に詳しい)

ワレモコウは吾木香、吾亦紅、我吾紅などと色々に表記されます。「吾木香」の表記は外来種の木香という薬草がアザミのような花をつけ、これに似ていたことに由来するのだそうです。牧水は密かに香る花と「我も恋う」の甘いイメージを歌に寄せたのだと思います。
しかし、ワレモコウには「吾亦紅」の表記が定着していて、小枝子の目からみれば、むしろこちらの方がしっくりくるようにも思います。

吾も亦(また)紅なりとひそやかに(高浜虚子)

この句のように、振り向いてもらいたい秘めた想い、ひそやかな自負が、吾亦紅の名に込められています。神様が赤い花を呼び集めた折、この花を加えるのを忘れたので「吾もまた紅なり」と吾亦紅がささやいたのが、この表記の由来だと、物語めいて語られることもあります。

牧水の名声を高めた『別離』出版ののち、小枝子の妊娠とその女児を里子に出すという試練が待ち受けています。これが、牧水をアルコール依存症へと追い込み、若くして肝硬変で命を落とす原因ともなります。
冒頭の歌は、恋心を詠んだものでありながら、やがて枯れてゆくだけの寂しい秋草に、自分たちの関係を重ね合わせたもののように響きます。

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思い草 鬼の醜草

2021-09-11 13:07:56 | 日記

大江山桔梗刈萱吾亦紅(ききょう かるかや われもこう) 君がわか死われを老いしむ
(馬場あき子『桜花伝承』)

大江山は酒呑童子で有名な場所で、この歌の上句は能楽「大江山」の謡の一節を引いています。
能楽「大江山」では、鬼退治の勅命を受けた源頼光の一行は、山伏姿に身を扮して、酒呑童子の隠れ家に宿を求めます。鬼たちは一行をもてなし、酒を勧めようとするのですが、そのときの鬼のセリフが次のように謡われます。

頃しも秋の山草、桔梗刈萱破帽額(ききょう かるかや われもこう) 紫苑といふは何やらん 鬼の醜草とは、誰がつけし名なるぞ

世を拗ねたような響きですが、謡曲で酒呑童子が語るところによれば、もともと比叡山に住んでいたものを、大師坊という「えせ人」がやって来たために比叡山を追い出されたのだそうです。つまり、鬼たちは現状に対する鬱屈が貯まっていたのです。大師坊とは最澄のことらしく、鬼というのは朝意を背景に幅をきかせる宗教に締め出された、あるいは土俗宗教の人たちのことを指していたのかもしれません。

さて、酔い潰れた鬼たちを、源頼光一行は斬りつけて退治してしまうのですが、これはどう見ても騙し討ちであり、鬼たちの哀れさのみが引き立つ話です。

先ほどの鬼のセリフにもう少し付け加えると、「鬼の醜草」は紫苑の異称で、今昔物語に次のようなくだりがあります。
親を亡くした二人の息子の、兄の方は悲しみを忘れる「忘れ草(萱草)」を、弟は「思い草(紫苑)」を墓に植えて毎日墓参しました。兄は次第に墓参りをしなくなったのに対し、弟は墓参りを欠かしませんでした。墓を守る鬼は弟の孝心にいたく感じいったのだそうです。
鬼の讃えた孝心のしるしに対し「醜草(しこくさ)」の呼び名はないだろうと、やはり鬼が気の毒に思えてきます。

ずいぶん回り道をしてしまいましたが、冒頭の歌に戻ります。
「君がわか死」とは、馬場あき子が幼いときに亡くなった、生みの母親のことを指しているのだそうです。大江山はその亡き母の生まれ故郷に近く、酒呑童子のセリフを上句に置いて、鬼の言葉にかぶせるように母の早逝と今の自分とを詠んでいます。
母の墓前に思い草を手向ける日々を重ねるうちに、私も老境にさしかかろうとしていると。
酒呑童子の無念も、墓を見守る鬼の目も、ひとつの歌に折り重なっていて、亡き母に語りかける言葉に、鬼たちの言葉が遠く響き合うのです。

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ムラサキシキブの実

2021-09-05 14:30:34 | 日記

ムラサキシキブの実が色づいています。

二年前に購入した苗がすくすくと育ち、昨年は四方に枝葉を繁らせただけでしたが、今年になって初めて花が咲き実をつけました。
葉の脇に小さな丸い実が小房状に成っています。夏のあいだ薄緑色だった実が、秋になると紫色に変化し、その紫色が日々深くなっていきます。
もともと「紫敷き実(むらさきしきみ)」と呼ばれていたものが、いつのまにか紫式部と呼び慣わされたという説や、実の美しさが紫式部に例えたられたとする説もあります。

むらさきの清(さや)かなる実の雨にぬれムラサキシキブも山ゆく人も
(鳥海昭子)

今では野生のものは少なくなったのだそうですが、この歌では山野に自生するムラサキシキブが詠われています。
雨のなか足を滑らせないように気を付けながら先を急ぐと、色鮮やかな実の群生が目に飛び込んできます。ムラサキシキブの前に足を止めて息を吐くと、ツヤツヤとした紫の実のようにみずからも新たな息吹を得たような気がする、歌人はそう詠います。

それにしても、この紫の深さはどうしたことでしょう。山道ならぬ雨上がりの庭先でムラサキシキブを見ていると、実が小房状に連なるために光も乱反射して、どこか異界めいた印象を与えます。

才媛になぞらへし木の実ぞ雨ふればむらさきしきぶの紫みだら
(木村草弥)

この歌に詠まれたような妖しさは確かにあって、見るものの心をつかんで離さないのは、清々しさというよりも、むしろ命の営みの「ひたむきさ」ではないかと感じます。そして、ひたすらに生きてやまないこの野草が望むことは、実を輝かせることそれ自体ではなく、山鳥にいち早く見出されて命を繋ぐことなのです。

ムラサキシキブ最も早く実を持てど最も早く鳥の食い去る 
(土屋文明)

せっかく色づいた実を鳥に先取りされたおかしさを感じさせる歌です。それと同時に、初秋に最も早く実をつけるやいなや、鳥が食い去る営みに、弾けるような命の輝きを見出した歌人の、命の讃歌だとも思います。

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