W A K I の気ままなトンボの目

自分流の勝手な生き方ですが、何か気付いたことを書いてみます。
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やがて半世紀 「大戦の犠牲者悼む博物館」

2009年04月28日 | 歴史
 3月24日の新聞にアウシュビッツの記事が掲載されてWAKIは思いを新たにした、というのは1964年にWAKIは所属していた労組から総評・中立労連の代表の一員としてイタリア・フィレンツェでの「平和と軍縮のための青年学生国際会議」に参加した、その帰途東欧各国を視察、そのなかにポーランドのアウシュビッツがあった、この新聞記事を見て45年も前の記憶が鮮明に蘇ってきた。大きな部屋に山積みされた義足、靴、衣類、毛髪、果ては毛髪で作られた毛布、ガス室に使用された毒ガスの缶、いかに多くの人が犠牲になったかがわかる。そしてこれらの展示をWAKIはカメラに収めたが、やや色あせていたが、そのカラースライドを改めて取り出して見て当時の事をあらためて思い起こした。と同時に多くの人に伝える責務があると考えている。ここはユネスコが「負の世界遺産」に登録されていて、観光地ではないがいまは戦争を知らない多数の人々が見学に訪れているという、「ヒロシマ・ナガサキ」同様、遠隔の地ではあるが、ぜひ多くの人に訪れて欲しい場所だと心から思っている。
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かれこれ二年 「七十の手習いなかなか難しい」

2009年03月20日 | 歴史
 WAKIは I 先生にもうかれこれ二年も習字や篆刻を習っている。題して「おもしろ書道」毎月一回2時間ほどだが頂いた宿題を皆の前で先生にみて頂き講義を受け、さまざまな資料もいただく。いままで行書の「千字文」に「蘭亭叙」を教えていただいて今は楷書を修めるものは必ず習うとされる「九成宮醴泉銘」を教わっている。臨書は字体を頭に叩き込んでそれを教科書の通り半紙に書くのだが正直これが実に難しい。漢字は文字どおり中国から日本に伝わった、書の大家は決して、書いたものを残すことはなく弟子はそれを写したり石に刻んで後世に伝えた、この「九成宮醴泉銘」も拓本がわれわれの教科書である。I先生はこれらの資料を惜しげもなく見せてくださり有り難いことだ。それにしても上達には書くことしか道はない、至難の業だ。

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脳裏に残る子守唄 「子守唄幼い自分重ねてる」

2009年03月19日 | 歴史
 いいかげん歳をとっても幼い子供の頃の郷愁が頭をよぎる、このまえ天満橋を渡り天満の天神さんまで歩いたら「淀川三十石船舟唄碑」と隣り合って「天満の子守唄」(別名大阪の子守唄とも言う)の歌碑があったのでしげしげと眺めながら、歌を口ずさんだ。♪ねんねころいーち、てんまーのーいーちで、だいこそろえーて、ふねにーつむ。ふねにつんだーら、どこまーでーいーきゃる、きづやなんばーのはしのーした・・・・このあたりはかつて旧淀川の水運を利用して大阪の商業が栄えた中心であった。WAKIが幼少の頃は家が市場で店を出していたので両親は忙しい毎日を商売に明け暮れた、だからたぶんこんな姿で兄弟は姉の背中に負われて育てられたことは間違いない。
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後世に伝えたい 「64年風化しそうな時を経て」

2009年03月11日 | 歴史
 きのうは今から64年前に東京大空襲があった日で東京ではいろいろ追悼の催しが行われたようだ。3月10日の東京大空襲はB29爆撃機325機が飛来したと言われ都心は焦土と化した。大阪での3月13日の大空襲は90機が1,733トンの焼夷弾を投下、市中心部21平方キロ(阪神甲子園球場530個分)が焦土と化し13万6千戸が焼け、約4千人が死亡したときのうの朝日新聞には記事が載っていた。そしてきのうWAKIは青空文庫(Netで読める)で海野十三の敗戦日記を読んだが首都東京の空襲から終戦までの状況が実に克明に描かれている。WAKIは国民学校4年生でB29による空襲も艦載機による空爆も体験したがこれだけは一生忘れることはない。海野十三の科学推理小説も家にあったので何回も読んだ。

[速報] 元旦に千葉県鴨川を出航した比企啓之さんと間寛平の乗ったヨットエオラス号が無事ロスアンジェルスのロングビーチに到着した。快挙です、ご苦労さまでした、おめでとう!
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京都の穴場 「近代化産業遺産ここにあり」

2009年02月14日 | 歴史
 ぽかぽか陽気の休日明け、WAKIたちは前から行ってみたかった京都岡崎の京都市動物園に行った、東西線蹴上駅で降りエスカレーターを幾つも乗り継いで地上に出たらすぐ横に何やら古めかしい煉瓦のトンネルがあったので通り抜けるとそれは「インクライン」の軌道の跡であった、そしてそこは小公園になっていて明治の遺物が近代化産業遺産として残されていた、明治になって国の政治の中心が東京に移り、京都は人口が減り続けていたのでその挽回策として琵琶湖から水を引くことになり当時大学を卒業したばかりの田邊朔朗が設計監督を命じられ明治18年着工難工事の末明治23年にインクラインは完成した。何しろ琵琶湖から水を引くとともに船に積んだ物資も運びさらに世界で2番目の水力発電所も作ってしまうと言うとてつもなくでっかいプランを成功させた功績は大きい、このあたり一帯には、インクラインや疎水に沿って沢山の桜が植えられておりやがて満開の桜も見れることだろう、初めて見て感動しきりであった。
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公園探索 「ふれあいの丘に鎮座の寝屋古墳」

2009年02月06日 | 歴史
 この古墳、大阪府寝屋川市の東端交野市に接する大阪府立寝屋川公園の中にある。寝屋川公園は大阪府の施設で400mのトラックをもつ陸上競技場に公式野球場が2面、ソフトボール場が2面、テニスコートが15面、そしてエントランス、中央広場、芝生広場、ふれあいの丘などがあるスポーツ公園だ、最寄駅はJR学研都市線の東寝屋川駅、そしてこの寝屋古墳はそのなかのふれあいの丘にある。築造は古墳時代の後期(6世紀末~7世紀初頭)といわれ明日香村のキトラ古墳より1世紀ほど前、北河内地区最大の石窟の中が外から見れる。きのうはぽかぽか陽気で野外でのおにぎりをすごくおいしくいただいたが、花の時期には早いし、何も見るべきものはなかった、駐車場は完備しているがごたぶんにもれず高いので景色を見ながらおにぎりを食べて帰ってきた。今は野鳥の天国だが残念ながら池がない、桜の頃は楽しめそうな公園だ。
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交通の要衝 「見晴らしのひらかた八景万年寺」

2008年12月29日 | 歴史
 ひらかた八景の一つに万年寺山がある。ここは小高い丘になっていて眼下に淀川があり対岸は高槻市、そして北攝の山が連なって見える。この丘が万年寺古墳であって発掘された墓の基礎の石組みも展示されている。そしてここは豊臣秀吉が茶室を設けたとのいわれから「御茶屋御殿跡公園」として整備がすすんだ、そして枚方城がここにあったという説もある。なにしろこの眺望だから川を収める重要な拠点であったことは容易に伺える。いまはすぐ下を京阪電車が走り、歴史街道の東海道57次枚方宿が京街道に沿って並んでいる。往時には参勤交代の折、紀州の殿様の常宿で総勢3,000人が泊まったそうだ、そしてこのすぐ横には梅林があって意賀美神社がある。
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洛西総氏神松尾さん 「蓬莱の庭に三玲の心見る」

2008年12月07日 | 歴史
 松尾大社に三玲が作った「蓬莱の庭」は鎌倉風で昔中国の人が東海に不老不死の島があったという言い伝えに由来している。池を回遊しながら林立する岩の変化のさまを眺めるのもいい、池全体は鶴が大きく羽ばたくさまを表現している、そしてさきの曲水の庭の亀と相まって縁起がよい、又この神殿は結婚式場でもあり披露の宴はこれらの池をながめながらおこなっていただきますと、神主さんのお勧めでもあった。夜にはライトアップもされる、幽玄の世界が浮びあがることだろう。
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上古の庭 「磐座(いわくら)は古代祭祀の場であった」

2008年12月06日 | 歴史
 松尾大社の宝物殿を挟んで三つの庭があるその一つがこの「上古の庭」説明にもあるように重森三玲は昔々神社と言っても社のない頃、神の宿るところをこのような場所であったと考えて作庭をした。そしてこれらの巨石は徳島県吉野川の渓谷から運んだ青石(緑泥石)、を使った、石は笹に覆われているが今の笹は60年で生え代わったばかりだそうである。意識して低く作られた塀に沿って巡るようになっている。

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曲水の庭 「嵐山・三玲の庭は超モダン」

2008年12月05日 | 歴史
 嵐山の松尾大社にはいくつかの重森三玲の名庭がある、WAKIたちは折角嵐山に来たのだからと松尾大社に参詣して見学をした、ここの庭は重森三玲渾身の遺作とされ見るものを圧倒する。曲水の庭(平安風)はさつきの築山のまわりをゆっくりと水が曲がりくだりどの方角から眺めても美しい。回廊の上から見ると雌雄二匹の亀のようにも見える。一見しただけでこの庭の斬新的なデザインは目に焼きついて離れない。明日は二番目の庭を紹介しよう。なお、松尾大社はお酒の神さん新年には御祓いをうけると全国の酒どころから寄進の薦被りが参詣者に振舞われるそうだ。


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