ワッフルな気分

朝の光につつまれて、
甘い香りのワッフルに苺をそえていただきます。

日々の食事

2011-07-30 06:34:41 | ワッフル旦那のあれこれ

先日吉野にお邪魔したあで写真を撮った。

ネットもスカイプも出来る時代にあって、実際に会ってお互いの顔を見ながらのアナログな再会は楽しいです。

この肉の体の中に主がいらっしゃるのだから、声だけとか映像だけではレストランのメニューを見ているだけか匂いを嗅いでるだけの、食べたよ様な気にさせてくれるだけにも思えるほどの集まりだった。
本当に良い時間をいただけたのですが、振り返って思う事は、その時間があまりにいいので、人間的にはまたすぐにあいたくなる気持ちが出る。
割と簡単に集まれる状況なら「では次は何曜日、何時に、どこそこで」となるだろうし。
もし、人が増えてきたら「家に入りきらないから、沢山の人が集まれる所があるといいな」「椅子も人数分あればいいな」
「時間を気にせず話したいから、その人たちの食事も出来たら」「小さい子供達も楽しめる様にそんなクラスもつくろう」
「聞きやすい様に、語る人は前に立って、音響システムも準備しましょう」「今度の賛美はピアノの伴奏も」「他でも学びのクラスを始めました」
「この人にはずいぶん語ってもらっているので金銭的にも少し応援しましょう」と、形がどんどん出来上がってきてしまうかもしれない。
それくらいは誰でも考えつくような人の知恵である

聖書の中で”小さな群れよ”と語られてある。人数が増える程、人と人の距離が離れるような気がするのは私だけだろうか。
イエスも大事な話ほど少人数にしている。大勢の前では例えでしか話さなかった。

多くの方々のイメージする教会とか日曜礼拝という集まりは、ほとんど一方的な話で相互の語らいは少ない。
誰かが時間と手間をかけてその時の為に用意したものを頂くだけのレストランの様なスタイル。
体を成長させてくれるのは時々の美食では無い、普通の家庭の中で出されるその時々の食材。
たまには特別な食事や外食も美味しいけれどそればかりだと食材も偏りがちになるかもしれない。
出来合いのモノばかり買って食べている事が習慣になれば、自分で食材からつくることをしなくなっていまう。

聖書では、何々の家にある教会、という書き方をよく見る。
例外は何にでもあるものだが、教会と名がつくモノにはその例外が多すぎるような気がする。
ある程度、肥大した集まり、世で言う所の成功した教会はそのうち「○○神学校」というモノをもち
卒業した者にはノレン分け、チェーン店、フランチャイズと同じく、そのノウハウやサポートが与えられる。
だからもし誰かが、すでに出来上がった形を見て「あのような教会を、あのような働きを」したいと望むならその学校に行くのがいい。
そして世に認められたその道を進めばよい。あなたは立派な先生または宗教家になれるだろう。

かたやもし、自分の家に招いての集まりなら語る人が日ごろどの様な所でどの様な家庭でどの様な家族とどの様な関係性を持って日々を過ごしているかが「礼拝堂」と呼ばれる所より良く見えるだろう。
そこでは偉そうに特別な服を着たりネクタイを締めることも無く、普通の言葉がふさわしい場所。
「神はあなたを祝福してくださる。」と語っている人が案外家庭の中では祝福されてない事も見えたりするかもしれない。「主に従う事の素晴らしさ」を語っていながらその人の家庭では子どもたちが両親を敬って従ってない所を見るかもしれない。妻にも子供達にも敬われていない語り手の話をどれほどの人が聞き耳をたてるだろうか。

神のことばが会堂でなく街道で、神学校で無く真の学校で、集会場でなく出荷場などで、礼拝堂でなくイトーヨーカ堂などで、宗教的な場所では無く、河原で、職場で、カフェで、電車の中で、そして何より家庭の中でもっと語られる事を望んでいます。
確かに、教会に行っているとか行っていない事はその人と神の間に何の問題にもならない。
ある集まりに、行っているから何々派に属しているわけでも無く、団体に付属してないから自由なわけでもない。
それでも毎週行った方がよいだろうからと、習慣の様に行き続けているなら、一度理由なく休んでみてただ神の前にいてみてほしい。テレビやパソコンを消した時の様な静かさと寂しさを感じて自分はどう思うか。神は何と言われているのかを聞いてほしい。また人の反響を見てほしい。全ての事を確信を持っておこなってほしい。
あくまでその人と神様との関係が大事で、他の何かに依存していたり、動機が悪かったなら結果良く見えても、何の意味も無い。
会いたいとか、またこの様な時をという個人的な願いを主にゆだねて、思ってもいない時に思ってもいない形で主のあたえてくださるタイミングでその時を待たせて頂きたいと思う。
神がいつも与え下さるものは、人の思い、考え、知恵をこえているのだから