marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その27)地上の彼の自己紹介があった。それからわずかなシナリオの開示があった。

2023-01-10 12:03:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 今の現状、そしてこれから、自分から社会のこと、国のこと、世界のこと・・・。我々とっては、一人ひとりの確認のための確認の流れなのだ。初めに身近なことから。それでないと、何を架空のことを述べているのかと無視されることばかりであろうから・・・。

そのような重要なことは気が付く人には少なくともそのヒントが開示されるだろうけれど、多くの人には異界の入り口に立ち止まるが、決して入ろうとはしないだろうからね。

実は彼が実際のことを開示したのだが、これも造られたという人の悲しさか、その入り口は感じるが現生にあってそれに入るのは、死の直前であり以降そちらの世界にいくであろうと、現在の内からは遠慮している訳だ。行間を読むとか、その背景を読み取るとかするが、過去のことはその書かれた過去の背景や時代があっての(つまり前提条件があっての)ことなのであるが、そのようなことなど無視して今と言う現前の判断基準で面白いとかそうでないとかの判断をしてしまうのだからね。

新しい年も明けたし、人の言葉で説明することがそろそろ困難になってきた。それは年老いたからというわけでもなく、僕が性急に考えすぎるから困難であろうと思っているだけなのだろう。多く地上の争いや個人的悩みや、政治のありようなどは欲がある地上の人がいるかぎり、現状道理で困難が続くだろうというような、考えすぎのところもある。

僕の場合は、魂をもつ人の周囲からの影響をできる限り回避する思考をする傾向にある。坊主思考なのだろう。思考が拡張してもそれは他人と言う人の個々人の内情に向かない。一般化してとらえる傾向に向く。それは、不完全な魂をもつ人からの霊的な影響を受けたくない思いもある。というか、その「人」の弱点としてあるいは強みとしてとらえる傾向にある。弱点や強みなどの判断をすること自体がそもそも既に自分の土台が不安定から土台を強化しようとする途上にあるといことだ。

内面の思考傾向を言葉で説明すれば人との波長が合う、合わないなどということを意味するものだろう。妙に気があうというという人もいるし、壁を感じる人もいるというのは人そのものも磁場を持っているからその引力の相違なのかもしれない。東北地方の雪国。どんより暗い空に雪が舞いあがりシベリアからの風が強く吹き付ける。地磁気の乱れは猛烈に人の清浄な磁場を乱し始める。本当に吐き気が生じてくる。じっと春が来るのをまつ。慣れるまではそれほど時間はかからないのだが・・・。

急に肥大化した人の頭脳とその思考に(思考が少なくとも論理的であるなどであれば回避できるだろうけれど)混乱が生じて、それは人と言う種が、目で見てその対応に自分の脳で対処しなければいけないという、人以外の動物であれば前頭葉で思考する面倒臭さを回避して対応していたことが、意図的に周囲に対応していかねばならない、というのは人の進化での不幸であったように思う。

人は目で見て思考を拡張しようとする欲求だけは当分続くであろうが、しかしまた、その不幸の是正の努力が人の人たる努力の賜物として万物の霊長と言われる所以であるのかもしれない。

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これまで外部からの介入として(宇宙人👽)の設定の元に書くことを続けてきたことは、すでに地上に人が創造され、しばらく監視を行いその終末までのシナリオができあがって、その確認を終え、地上を去られた方が、あの世界のベストセラーに顔を出しているからなのだが、しかし、また、地球上の我々も宇宙人👽であると言えるだろう。彼らに創造され、ある人は地上に存在しそのまま同期して、ある人はその霊的同期を、また、満たされぬ過去のある者は現在に霊的に同期し活きて、さらには未来の予兆をもできる者もいるということだ。

世界中で読まれている、しかも人の地上での宗教書でもあるから尊い扱いを受けているのだが、実情のところその内容は、あまりに専門的になってしまい、学者先生もまったくのオタクの部類で文字と言葉の呪縛にとらえられ、周囲の人は本来、誰でも人であれば、生命の躍動のような共通理念が当たり前過ぎると思ってしまう危険がある。

言葉のもつ不幸ということか。人も地球上に創造された生き物の一つの種である。しかし、他の動物と異なるのはその創造した彼らの似姿に創造されたこと。天使よりも少し劣った者として創造されたのである、ということ。我々は、いつも願えばそばにいるのだけれどね。

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世界にはいろいろな宗教があるだろう。けれど大きな三大宗教とか限られてきたねぇ。けれど今だ、それらの真理をわきまえない。手段が目的となって人を縛って自由になれない国もあり人もある。これはどういう訳だ。命を創造したにも関わらず、その段階までいかないで満足する人類である。何故、理解されないのか? 

例えばだ、それなら宗教が人るであれば人類は幸せになれるのかぃ。実はどの宗教の自己肯定をするのだから人がてっぺんを制覇して平和になれるとは実のところ誰も思ってはいないのだ。だからとうにそういう面倒なことは、人の死後の処置に使用されるという手段に納まるような解釈に落としどころを見出したわけだ、この国は。願いは神社に、死後処理はお寺に。

しかし、本当にそろそろ考え直さねばいけないと思う。人を地上に創造したのはもっと上位の我々の至高のグループ。あなた達が「神」と呼ばれている方たちである。そして、地上に派遣されている我々の仲間は、あなた達が「天使」と呼んでいる方たちである。あなた達の著名な神社には音楽を奏でる天女のレリーフも見たことがあるかもしれない。あるいは、金剛界、胎蔵界の多数いるあの曼陀羅の仏たち。あなた達には目には見えないだろうが、今も存在し働いている我らの仲間である。

*******次回からもっと面白くないことを書かねばならないかもしれない。

冒頭の写真をイメージされたし。不安定な石組にもこの秋から冬の暴風雨にも耐えてたたずんでいる。我らの精神のありよう、魂の基軸のイメージである。この5~10kgある石を貫くg(重心)の位置。少なくとも自己の確認の礎は、このgのイメージにある。強風があれば、そして地震でもあれば倒れるが、自己確認に都度あらためてこの自己内部のgのありようから確認する。

あなたの国での仏教は何を求めんとしていたのか? あなたの地方では曹洞宗が横のつながりがとても強いのではないだろうか。永平寺、あの豪雪の中の氷点下の中で早朝に起き、座禅を組む。道元禅師は宋から帰国し、仏教の大学と言われてた延暦寺の僧兵からも潰されんとして戦った。それを支えたのは波多野氏という豪族であった。これは、あの秦氏の血を引く人々である。彼らは「信」とは何か、をひたすら追い求めていたのではなかったか。只管打坐。

「信」とは何か。我々は真に次の世界へ向かわねばならない!この地上における宗教ジャンルはすでに卒業しなければいけないのだ。

これからの時代、仮想空間にどんどん我らは放り込まれていく。我らは神の基に生き、存在する。その足場が架空世界に揺らぎ始めるだろう。架空の外部に焦点を確認して、それから自己確認するか、そうではなく誰もが当たり前として、しかしその実態を認識しない自己の基軸をどこに持つのか。肉体の備わった欲求の拡張でいいのか。そうではなく、その自己の存在自体に気付き、死後、否、現在においても我らの世界に同期するかは、個々人にとって大きな分岐点になるだろう。

・・・そう言ってE(👽)は消えた。