marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その33)今、生きているわたし達に関係すること

2023-03-08 11:43:17 | #日記#宗教#思想・哲学#宗教#手紙#小説

 大川隆法さんが亡くなった。66歳だった。お若かったなぁ。東京ドーム一杯分の蔵書も読破し、沢山の本も著わされた。彼は、日本のあちこちに”幸福の科学”の道場も設立された。選挙にも出て、党派も作られて全国から議員を排出されようとした。で、沢山の本を著わされたのだが『○○の霊言』なども多数、著わされたが彼は、涅槃の世界にすぐに昇られたことになるのだろうなぁ、”幸福の科学”の総裁は、奥様(この方も多数の本を著わされている)が引き継がれるのだろうな、などと考えながら。

ところで誰が彼をお迎えにきたのだろう。來迎図には阿弥陀三尊が臨終の際にお迎えに来て、念仏宗の唱えに死を迎え次の世界に共に出かけてこの世からのお別れ(死ぬ)をする。普段、今、現存する次元の異なる世界とやり取り(交信する)人は、自分の死期が分かるものである。その為の周囲の者への準備もするものである。彼の場合は、あまりに早すぎる。どうだったのかな。机の前に座り続けあるいは、殆ど動かぬ瞑想に明け暮れて頭脳は絶えず冴えてゐても、血液対流が悪くなって所謂、フレールなどで血栓が詰まるなどしたのだろうかと思ったりした。

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過去に掲載した(2019/6/19)、チャリンコで秋田の田沢湖ツーリングに出かけて泊まった比較的安価なホテルは、”幸福の科学”の運営だったのかなぁ、ホテルから窓越に見える金色の大きな仏像が、なぜこんな山の中にあるのかなぁ、ホテルの食堂からは大きな金色仏像の半身が空にはみ出して少しキモかった、などを思い出す。

参門にあることわり書きも宗派はよく分からなかった。人はおらず閑散としていた。田沢湖畔には”幸福の科学”の例の御殿が建っていたが、そのおそらく、年度の記念行事に全国から集結されるのか、その為のホテルでもあったのかなぁ、などと思ったのだが。ホテル内にはそれらの雰囲気は見られなったけど。そうであればなおさら、道路も整備されたさほど遠くない林の中に大きな金銅が建っているのはやはりキモイ・・・。これは個人的な感想であったけれど。

仏教から科学的な思考?を持って、霊言なる著作を多数著されていることに、又、多くの信者がいて読まれていることに、その観念的な次元での人の信仰心のありようというものに関心があったが、立ち本読みだけで、根本的に全く視点が異なているので本は購入したことはない。

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今は時代的に豊かになったから、宗教戦争などは世界史で、否、今まもニュースで流れる事柄ではあるが、この日本においても歴史を少し垣間見ると仏教の宗派間での争いは大変なものであった。古来、天皇が仏教を保護するようになって数知れずの多くの僧が保護され、堕落の極みにもなったことも延暦寺の焼き討ちを織田信長が行ったことの一因でもあった。このような宗教的な堕落は、間違っても学校では詳しくは教えられない。

まして、織田信長がウエルカムし、秀吉も前半までは博多に教会設立まで許可していたのに、ポルトガルの艦船を見去られるにつけ、また長崎の地も宣教師に壌土されたりと、ポルトガル王の庇護の元の植民地政策を知って弾圧に舵を切ったのは、当然のことだったようにも思うが、このような負の面は決して強調されず表には出てこない。遠藤周作が、日本は福音の種を蒔いても泥沼で根が腐ってしまう、というようなことを、殉教者を哀れに、慈悲のないこの国の為政者に非難めいたことを述べるが、この国の純粋な信者は、また純粋な宣教師は、世界の歴史で、最も光の衣をまとった悪魔と命がけで闘った国の人々だったといえるのではないか、そのことを忘れてはいけない。

総じて最終我々が闘うのは、人社会にそうさせてしまう「天における悪の諸霊に対するものなのである」(エフェソ信徒への手紙6:12)事実、今も宗教の面は表立った出てこずとも底面下では起こっていることではないのか。

 僕の知人の司祭が留学時に寺院が見えるアパルトメントに住んでいたらしくこの写真の年賀状をその地からくれた。

聖ピエトロ寺院のあるバチカン市国から少し離れた場所に、イエズス会の本部がある。そこには歴代の海外からの宣教師たちから送られたレポートがあまたあり、日本のことが書かれた「耶蘇会士通信」を保存した文書館がある。棚の端に「JAP.SIN.」と書かれた札があり、日本と中国からの通信が埋められているが、その中の日本関係の書翰が5000通はあると言われている中に、今後門外不出となるであろう「日本占領計画」とイエズス会の秘密文書があるのである。そこの文書館主任もその内容を認めており、ただし、このようなことは今後決して表に出ることはないだろう、と。

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天皇の代替わりに和暦名称が変わるところに、織田信長は勝手に「天正」にしてしまうところ、さらに西暦にまでしようとしたところに古来からの天皇の存在が脅かされると感じた朝廷側が、画策して天下統一を果たし、古来からの武家が朝廷を頂点にした世界観に戻したところが、猿と呼ばれた一介の農人だった秀吉が官位をもらい最も出世した武士としてれ歴史に残っている訳である。

なぜ、彼の羽織の紋が『五七の桐』であり、今も政府が使う演台の前面につけられている紋が、この『五七の桐』なのかはこの国を古来から形成した通奏低音のように流れるDNAとかの言葉を僕が書くのは、それがあるからなのである。今までブログを読まれてきた方は理解されるだろう。

それは、限りなく遠い昔、宇宙から飛来してこの地上に人をつくり、将来までのシナリオを作成し、そればかりではなく、その人の創造の生命の開示を漸次、開示し続けてきた人の科学への教示でもある。

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遠い遠い昔、宇宙から飛来した彼らが、この地球に生き物を作らんと実験して来た時代を経て、地下に鉱物資源があることを知って(その場所はまさに地球の三大<アフリカ・ヨーロッパ・アジア>の中央部)その活用をすれば、まさにテラリウム(自然環境がトータルに循環してこの地球で完結するエネルギの基)になるのではと考え、そこに住む人という動物を作り給うた。その実験場はアフリカであったのだが、それは初め人という種の生きもので通常2足歩行の生き物としてはそれでも非常に秀でていたものであった訳だが、彼らはあちこちと動き回った。

人のモデルのプロトタイプとシナリオ

そこに、自らの投影を模してこの地球という土地にもそれは荒い波長ではあったのだったけれども、自らよりはわずかに劣った自活する生き物として世界を支配せんと創造せしめた。人の創造はじめ、物事の始まりはどうであったかは今でも学問として、人は世界で解明を続けている。時には時代を経るにつれそれを娯楽産業という儲けにも及ぶ、人の機能や欲求にも結び付けられて拡張されてきた。

この荒い波長の地上での生活に動物としての、それは意欲という個人の指向にも係わっているのだが、生存としての生殖欲求、それに伴う攻撃性、制覇欲、他への排他性。こういう人の種の欠陥とも思える現象は、食物連鎖の頂点となる人は、創造者の分身たる魂をの分与をおこなったのだが、実験において少し彼らの解放は早すぎたといえるものだった。そして、この話は再びブログの(その3)に戻っていくのである。・・・『2001年宇宙の旅』(youtubeでこの「美しき青きドナウ」と「ツラァツーストラはかく語りき」を聴かれたし)。

最後の場面は、羊水に包まれた赤子が宇宙空間から地球に降りていく場面で終わっていくという象徴的な場面であった。・・・・