のびたとブレイク

生き生きと第三の人生を歩んでいます
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我が記憶の 仰げば尊し

2012年03月20日 08時08分18秒 | ボランティア
 
仰げば尊し わが師の恩 最近の卒業式には あまり歌われない
教師が わが師の恩と言われる自信のない教え方なのだろうか
しかし 私たちには 心に残る歌の一つである
 
昨日 施設で数々歌って貰った中で この曲が一番上手に歌えていた
認知症の方も 歌いにくい難聴の方も 小さいけれど歌声が聴こえて来た
訪問してすぐに 前に来た先生と違うなんて 言われた方も・・・
 
私の小学校時の大部分は 信州の山奥の寒村だった
ラジオも電気もガスも水道も無い ランプの生活だった
食糧もあまり恵まれない 自然の恵みの無い冬は厳しかった
 
身体検査があると 私には意味が分からないが 栄養失調と診断された
出稼ぎの父は 次に会うまで 私は持たないだろうと諦めていたと言う
今でも妹と笑って話すが 共に幻覚を見るほどだった
 
給食はまだ無い 昼の弁当を持って行かれないときもあった
村の遠足にも 私は離れて 昼の過ぎるのを待った
見かねた先生が 私を呼んで 弁当を分けて食べさせてくれたのを覚えている
 
5年生の途中 東京へ出てきた
家が貧しく 納豆売りをしてから学校へ行った
修学旅行もあったが 自分から母に断って行かなかった
 
今では考えられない暴力教師が担任だった
少し度が過ぎたいたずらを怒り 犯人探しで追及したが 誰も名乗らない
男子生徒を対面して 並ばせて 面する相手を往復ビンタをさせた
 
私は相手を殴ることが出来なかった
教師は そんな私を殴り飛ばした
 
中学1年生 美人教師に可愛がられた
放課後も 試験の採点を手伝わされた
美しい字を書く教師であった
 
2年生になって 担任が替わり男性教師になる
クラスの不良が仕掛けた悪戯で 濡れ衣を着せられた
あとで 不良たちに礼を言われたが この日から登校拒否を始めた
 
母には心配するから言わず 毎日家を出て 放浪して歩きまわり夕方戻る
通信簿を貰わず 夏も過ぎ 秋も過ぎ 冬になった
さすがに 母は感づいており ある日 私を問い詰める
 
怒っているのではない
一緒に死のうと言ってくれた
これを期に 学校へ復帰して 必死に勉強してみんなに追いついた
 
こんな教師には絶対ならない
自分も教師になるんだと心に決めた
高校は 昼の学校へは行かれず 夜間を選び 4年間 昼働いてから通った
 
クラブ活動があり コーラス部に入った
音楽指導は 中学校の教師が来て教えてくれた
2年くらいで指導はやめたが 先輩と もう一人の女性と4人 意気投合した
 
この4人で 青春の想い出は いっぱいできた
音楽会 ハイキング 映画 食事 素晴らしい想い出である
美人で小柄で 一回り上の教師に 淡い恋心を抱いていたものである
 
 
教師になる夢は 生活が目いっぱいで いつしか諦めた
でも 今 ピアノを弾いて 先生 先生と 慕われている?
 
 
 
 今日の誕生花  みつたま
 花言葉      意外な思い
 
 
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