三島橋から川を覗くと川底に岩が露出していました。
高戸橋辺りまでは確か、川底もコンクリートだった筈です。
何だろうと思い調べてみると、最後の間氷期に東京の奥まで海が入り込み、海底に植物や砂などが堆積し、それが泥岩や砂岩となった東京層が露出していることが分かりました。
そして、その状況を見ると、川の流れに沿って溝状の構造が見えていました。
わざわざ岩を刻む必要はないので、東京層の地層断面が現れ、断面毎の硬さの違いで、水の浸食度が異なると推測したのですが、自信がありません。
そこで、「東京層」でネット検索して、東京の地質を解説するページを見つけ、ずうずうしく、「この現象の理由を教えて下さい」とメールで質問しました。
すると翌日、東京地質コンサルタント 代表取締役の岡部様から以下のような回答を頂きました。
「この付近には固結シルト(泥岩に近い粘性土)と砂層が互層状に分布すると思われます。砂層は河川により浸食されやすく、固結シルトは浸食されにくい土質です、このため、河床部では凸状に固結シルトが残り、見た目、溝状となっているものと考えます。」
頂いた回答を十分に理解していませんが、河床の縞模様は、土質の異なる層が互層状に分布し、それらの浸食度の差によって生じた結果であると理解しました。
三島橋を渡り、左岸を進んで行きます。
川に沿って、人気のない静かな道が続いていました。
仲之橋を右岸に渡りました。
川床の岩が気になるので、橋がある毎に川を覗きました。
豊橋(ゆたかはし)辺りで、川底の岩はテーブル状となっていました。
そしてこの橋は、両岸が束の間の新宿区です。
橋から延びる道の先に豊川稲荷があり、その先に豊坂があります。
文京区教育委員会が設置した「豊坂」の解説に、豊坂の名は豊川稲荷に因むと記されます。
豊橋も同じ理由の筈です。
豊橋を過ぎて目にした「いきいきウォーク新宿」の案内によれば、高戸橋から1040mの地点が文京区との区境だそうです。
つまり、昔の神田川は、この場所から今の神田川の右岸へ向かって蛇行していたことになります。
文京区に入って暫く進むと、
駒塚橋に出ました。
駒塚橋は江戸時代、今の場所より下流に架けられており、橋近くの老松に馬を繋げたことから、馬繋橋と呼ばれましたが、松が枯れた後、誤って馬塚橋と呼ばれ始めたと伝わります。
橋の上から見えるのはホテル椿山荘です。
椿山荘は古くから椿が自生する景勝地でしたが、明治11(1878)年に山縣有朋が屋敷を構え、幾度かの変遷を経て、現在は藤田観光がホテルと一体管理を行っています。
橋を渡ると、肥後細川庭園の案内板があったので、寄っていくことにしました。
庭園へ行くついでに、左岸の道を豊橋まで探索すると、里程標が現れました。
「すみだがわ7.0㎞ みなもと17.6㎞」と刻まれています。
と云うことは、この場所が全行程の約70%となります。
え! まだそんなもの、と思いますが、もうちょっと楽しめるぞ、の感慨も湧いてきます。
まさに、来し方70年の人生そのままの気分。(鬼が後ろで笑っていますが)
すぐ近くで、岸辺の柵にツルを伸ばしたトケイソウが、エキゾチックな花を咲かせていました。
トケイソウは熱帯植物のイメージがあるので、これには驚かされました。
良しに着け悪しきにつけ、昨日までの経験を覆すような、明日が待っているかもしれません。
そして、幾つになっても、柔軟性だけは失いたくないものです。
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