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世界を見てきましたが

2021-07-09 20:06:26 | 自転車で神田川

 左衛門橋の横に台東区が「旧町名由来案内」を掲げていました。


 慌てて地図を確認すると、神田川は左衛門橋の直前で千代田区を抜け、その先の左岸は台東区、右岸は中央区となっていました。


 掲示板に記された説明は


「平右衛門という人物が浅草上平右衛門町(へいえもんちょう)を開いた。

 天正18年(1590)家康に従い江戸へ入り、元和2年(1616)、家康が浅草寺へ参詣した際、この地に町屋を開くことを命じられた。

 

 平右衛門は名主となり、平右衛門町が町名となった。

 

 明治5年(1872)には東西にわかれ、その後西側が浅草橋一丁目となった。


 一方、左衛門町は、明治5年に、庄内藩酒井左衛門尉邸があった地に町屋が開かれ、当初は新平右衛門町と称していたが、後に神田川に沿う場所を、俗称として左衛門河岸と呼んでいたのをとって町名となった。(要旨)」


 と記されていました。


 そして、橋の前に屋形船が浮かび、その先の正面にビルが立ち並ぶ景色が見えていました。


どうやら隅田川の左岸が見えてきたようです。


 と云うことはつまり、神田川と隅田川の合流点はもうすぐそこです。

 

 


 左衛門橋を過ぎると、川岸に野田屋という船宿がありました。


 橋の上から見えていた屋形船を営む船宿のようです。


 看板には花火船の文字も見えます。


 隅田川の花火大会の時に、この辺りから船を繰り出すのでしょう。
 


 そしてその下流に三浦屋さん。


 柵に腰かけた男性がひとり、スマホを見ていました。


 コロナ騒動が収まるまで、客は戻ってこないかもしれません。

 


  そして東京駅付近から馬喰町、浅草を経て隅田川の言問橋を超え、水戸街道へと続く江戸通りに出ました。


 その江戸通りを渡す橋が浅草橋です。


 案内図で現在地を確認すると、隅田川はもう目と鼻の先です。

 


 川の中に屋形船が連なっていました。
 

 

 川岸に沿って、自転車を一漕ぎすると、緑色のアームを見せる柳橋が近づいてきました。

 


 ここにも「旧町名由来案内」があって、


 「昭和9年(1934)に幾つかのまちが統合され、神田川の隅田川合流点近くの「柳橋」に因んで浅草柳橋とした。

 

 柳橋の名は、江戸時代から花街として知られ、橋のほとりに船宿が並び賑わっていた。

 

 「柳橋」は元禄11年(1698)に初めて架けられ、当時は川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋をよばれるようになった。現在の橋は昭和4年に架けかえられた」


 とのことです。

 


 
 柳橋のすぐ下で、神田川は隅田川と水を交えていました。

 


 井の頭公園を出てから僅か24.6㎞。


 いままで、アフリカやヨーロッパなど、世界各地を訪ね歩きましたが、今回の旅はそのいずれにも劣らぬ、新鮮で印象深い記憶を残すことができました。


 神田川河口の写真を見直すと、アムステルダム運河クルーズの景色を思い出します。

 

 
 このように何気ない、当たり前の、身近な日常にこそ、何ものにも代えがたい価値があるのだと思います。


 日本人が当たり前と思う、安全で清潔な日々の暮らしが、これからも末永く続くようにと願い、「自転車で神田川」の筆を収めることに致します。


 最後まで、ご愛読ありがとうございました。

 

 連日のように(いいね)の励ましを頂きました。感謝しております。

 

 記事を書くに当たり、以下のページを度々参照させて頂きました。


 ありがとうございました。


 東京の橋:神田川下流域 (djq.jp)
 神田川・橋一覧 (kanda-gawa.com)
 ぶらっと遡上探索 神田川に架かる橋--153 

 

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本当に必要なものは

2021-07-09 12:09:11 | 自転車で神田川

 万世橋に近づくと、交差点に面した千代田区万世橋出張所の玄関に「新型コロナウイルス ワクチン接種会場」の看板が掲げられていました。

 

 良く見ると、その建物のガラスに、自転車にまたがってカメラを構える私が写っています。


 世の中はコロナ感染でピリピリしていますが、こうして一人で風を切って自転車で走る分には、感染する、させる心配は殆どありません。

 


 万世橋から下流を望むと、秋葉原駅に停車する山手線がスピードを落としながら川を渡っていました。


 ところで、ちょっと余談ですが、秋葉原を「あきばはら」と読む人がいますが「あきはばら」が正解です。


 ですが、秋葉原の名の由来となった「秋葉神社」は ‘あきばじんじゃ’  や  ‘あきはじんじゃ’と呼ばれており、呼称は統一していませんでした。

 

 しかし、明治23年に貨物用の駅ができ、その駅の読み方が‘あきはばら’に決まったことから、地名も‘あきはばら’と呼ばれるようになったそうです。

 


 JRの線路の下を抜けると、和泉橋の横の岸に、階段状に掘り込まれたテラスが設けられていまいた。

 


 そして、そのテラスの入口に「親水テラスについて」という説明が添えられています。


 「この親水テラスは、防災船着場への乗り入れのために整備したものです。

 

 親水テラスの範囲は児童遊園として利用できますが、河川区域なので水位に十分注意するとともに、下記事項を必ず守って下さい。」


 と記されていました。


 高田馬場付近の源水橋にも同様の設備がありましたが、あれも同様の機能を持つのでしょうか?

 

 
 和泉橋の先に、ビルの谷間に流れる神田川の姿がありました。


 そして、その先の美倉橋下流も同じような景色が続きます。


 水の透明度は高くありませんが、川に空き缶やペットボトルなどの浮遊物が無いことが、逆に不思議です。

 

 これだけ多くのコンビニや自販機で缶コーヒーやペットボトル飲料が販売されている現状を考えると、この光景を得る為に、きめ細やかな対策が打たれている筈です。


 それとも、全て日本人のマナーが為せる技なのでしょうか。


 私はそう信じたいのですが。

 

 

 

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橋が繋ぐ

2021-07-09 11:39:36 | 自転車で神田川

 

 お茶の水橋から谷を覗くと、御茶ノ水駅でバリアフリー化に向けた工事が行われていました。


 完成予定は2023年だそうです。

 


 外堀通りを東へ進み、聖橋を抜けた場所で橋を見上げると聖橋は綺麗な放物線を描いていました。


 下流部に東京メトロの橋梁が架かり、今まさに地下鉄丸ノ内線の電車が走り抜けてゆきます。


 この電車は、霞が関から新宿を抜けて、荻窪まで走り続けます。

 

 

  
 外堀通りの相生坂を下りきった場所に昌平橋が架かります。


 御茶ノ水駅を出た総武線が、川の上に橋梁を架けて、秋葉原駅へと鉄路を伸ばしていました。


 川の対岸には中央線の前身となった、甲武鉄道の万世橋駅の一部だった赤レンガが見えます。

 


  昌平橋の説明が掲げられていました。


 そこに示された1850年(嘉永3年)の絵がとても興味深いので、拡大しました。


 説明文には

 「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1924~44年(寛永年間)に架けられたと伝わります。

 

 橋際から駿河台に登ると、一口稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一口橋とも呼ばれました。

 

 他にも、相生橋という呼称もありました。

 

 その後、1691年(元禄4年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子生誕地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。

 
 少し下流にあった筋違門(すじかいもん)とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。」

 

 と記されています。

 

 

   
 上の絵に、下の現在の景色を重ね合わせ、何だかクラクラするような、不思議な感覚を味わいました。


 後100年もしたら、この景色はどう変わっているのでしょうか。

 


 そして同じ場所に、神田旅籠町を説明する一文が掲げられていました。


 「この周辺は、かって神田旅籠町と呼ばれていました。

 

 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。


 江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。

 

 また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。

 

 こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです・・・


 街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。」 


 そうだったのですか!


 頭の中で次第に、江戸の街のジオラマが浮かび上がってきます。

 


 そんな昌平橋を支える石壁にヒメツルソバが花を咲かせていました。


 ヒメツルソバはヒマラヤ原産のタデ科の多年草ですが、園芸用に日本に導入され、今は野生化して、都内のあちこちで花を見かけます。金平糖のような花の形が人々に好まれます。


 そのうち、クローバーの花のように、日本の日常に定着すると思います。



 

 

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山を削って川を通した

2021-07-09 02:07:04 | 自転車で神田川

 神田川は飯田橋の交差点の下で、東へ向きを変えます。


 飯田橋の交差点は、目白通りと外堀通りの他に、大久保通りと水道橋分水路上を通る都道が交差しています。

 構造が非常に複雑で、文章で分かりやすく説明できる自信がないので省略させて頂きます。


 東へ向かう神田川の岸から振り返ると、船河原橋の一部と、その後ろに飯田橋が重なって見えていました。


 飯田橋は新宿区、文京区、千代田区の区境となり、ここから先の神田川右岸は千代田区です。


 目の前を流れる神田川は、首都高を乗せたまま、緩い右カーブを描いていました。

 

 

上流を振り返る          下流は緩く右へカーブ

 

 良く整備された外堀通りの歩道を進んでゆくと、
 

 

 小石川橋の袂に出ました。


 この場所が日本橋川の分水口で、日本橋川の最上部には三崎橋が架かります。


 江戸時代初期までは、この日本橋川の流路を、神田川の前身である平川が流れていました。

 

 しかし、その河口である日比谷入江が埋め立てられ、そこに建てられた大名屋敷などが川の氾濫で流される被害が続いた為に、平川の東に位置する神田山(本郷台地)を切り開いて流れを変え、南へ向かう流路を埋めたのです。 


 しかし明治時代になって、水運物流が盛んになると、再度埋め立てた場所を掘り直し、船を通す為に、神田川に繋げて、日本橋川と名付けたのです。


 右下写真が東へ向かう現在の神田川ですが、ここから先は、江戸時代に掘削した人工の河川なのです。

 

 

日本橋川の上の三崎橋と総武線     現在の神田川は東へと流れる  


 日本橋川との分岐点の先にJR水道橋駅があります。

 


 駅前から外堀通りに出る後楽橋と、その横に、川と外堀通りを併せまたいで、東京ドームへと続く人道橋の後楽園ブリッジが架かりますが、殆どの人が後楽園ブリッジを利用します。

 

 


 JR水道橋駅の横に「水道橋」が架かります。

 

 この橋の名は、神田上水を、樋で神田川の上を渡していたことが名の由来です。

 

 


 神田川に沿って、外堀通りを水道橋交差点の先に進むと、


 神田上水懸樋(掛樋)跡に石碑が置かれ、次のように記されていました。


 「江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901)まで江戸の東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました」

 


 外堀通りは上り坂となって、御茶ノ水駅方向へ向かいます。


 坂を上って、順天堂大学の辺りで川を見下ろすと、木立が葉を茂らせた斜面の下に、静かな神田川の流れを認めました。


 この辺りは、二代将軍・徳川秀忠の命により、本郷台地先端の神田山を、仙台藩祖の伊達政宗が切り開いた人工の谷で「仙台堀」や「伊達堀」とも呼ばれています。


 更には、山を掘削したことで水質の良い清水が湧き出て、それを二代将軍秀忠に、お茶に用いる水として献上したことから、この谷を、茶を意味する「茗」の字を用い「茗渓」と呼ぶようになったそうです。

 


 
 木立の緑に包まれた谷の斜面は、現在文京区によって風致地区に指定されています。

 

 

 

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