糸井ひろしの気まぐれ日記

日本共産党群馬県西毛地区委員会役員の日々のあれこれ

お仕事への誇りとかなんとか

2014-09-28 | 日記

 通販サイトでモノを買おうとするとき、消費者のレビューをよく参考にします。できれば安くて品質の良いものを買いたいと思うのは消費者の当然の思いです。

 いきおい低価格のものを中心にレビューを見ることになるんですが、よく見られるのが、製造が外国であることへの不満。同様に見られるのが、国内製造であることを褒めるレビュー。

 私の場合は、こうしたレビューは買うときの参考にはしません。まあ、参考にするかどうかは、各々が決めれば良いことですが。

 気になるのは、そうしたレビューのなかに、『ダメ』な根拠が、『海外で製造されているから』というものや、『日本製だから良い』というもの。「海外で製造されているからダメ」というのは、圧倒的に多く見られるのが中国です。こういう考え方は一面的だなあといつも思います。

 

 何年も前の話ですが、知り合いが中国の業者と取引して、試作品の出来がよかったので量産でゴーサインを出したところ、送られてきた製品の品質は、試作品とは比べようもないほど低品質だったということがありました。

 どうしてこんなことになったのかを問い質したところ、『示された単価の範囲でやった仕事だ』との答え。もっと丁寧な仕上げを求めるなら、相応の単価が必要だということでした。

 

 日本人の多くが、中国など、アジア諸国は物価も安く、賃金も安くすむから低単価で仕事ができると思っています。低品質なのは、技術が足りないとか不真面目だとか、そういう理由にしているようですが、本当にそうなんでしょうか。実は「単価の安い」海外に対して、日本はとても無礼な振る舞いをしていないだろうか。おおいに考えさせられる出来事でした。

 

 今の仕事に就く以前は、私は町工場で働いていました。仕事の中身の大部分は、他社から請ける仕事です。図面には一流メーカーの社名が入っています。

 私は自分の仕事に、それなりに誇りをもって働いていました。自分の品物が、あのメーカーのこの製品を支えているのだと。あるいは、そこいらの同業者より丁寧なつもりだとか。

 しかし、現代ではそういう誇りは、評価とは関係ないんです。製品として求められるレベルに到達していれば、それ以上にクオリティが高いから仕事が来るか、単価が上がるかと言えば、そうでもありません。「不良品を出さない」「単価に文句を言わない」「どんなに無茶な短納期でも守る」ことが、下請けの町工場に求められる『クオリティ』なんです。

 単価はどんどん「コストカット」と称して削られます。文句を言えばすぐに他の業者に回されます。あるとき、社長が「こんなに削られたのでは材料費も出ない。中国じゃないんだ」と文句を言ったところ、取引先の人は「中国と単価を競ってるんだ」と言い放ったそうです。

 

 「町工場には大企業の及ばない技術がある」などと一部でもてはやされていますが、よほど特殊でなければ、そういう技術を大企業は高く買ってはくれません。

 大企業を支え、社会を支えているのは中小業者、町工場です。中小業者の経営を支え、活気を取り戻すことが、今の日本の景気を良くする道筋だと思います。中小業者の誇りは技術力、仕事への真摯な姿勢。ならば、その技術力を正当に評価し、買ってもらうこと。大企業の隷属業者ではなく、事業者同士、対等の取引ができる仕組みをつくることが必要です。

 

 消費税をさらに引き上げ、「赤字経営の中小業者には消えてもらう」などと平然と言ってのける安倍政権のこれ以上の存続を、私は断じて許せません。彼らは仕事をしている人々の誇りを奪い、やる気を根こそぎに奪ってしまいます。


人間らしく生きたい

2014-09-01 | 日記

 気がつけば、このブログの更新もひと月以上ご無沙汰でした。余裕のない日々を送ってまして(本当か?)。

 

8月29日、ちょっとした企画のお誘いを受けて参加しました。

 「新日本婦人の会」という団体の支部の中に、要求でつくる「小組」があり、その企画に乗ったわけです。行き先は嬬恋村や草津町。一昨年たいへんお世話になった地域で、それ以後うかがう機会に恵まれなかったんです。

 今回、とりわけ私が行きたいと思っていたのは「国立療養所栗生楽泉園」への訪問でした。ハンセン病患者の療養所です。

 ハンセン病患者とその家族は、不知や後遺症、政策などの要因で長い間不当な差別を受け続けてきました。

 とりわけ草津の栗生楽泉園には、「特別病室」という名の重監房があり、人権侵害はなはだしい行為が国の政策によって行われていました。

 この重監房が、「資料館」内部に実寸大で再現されています。一昨年、故谺雄二さんとお会いしてお話しし、自治会の方のご案内で園内を視察した際、「ここに資料館ができるのだ」と説明を受けていたのですが、この日までついぞ訪れる機会を逸していました。そうこうしているうちに谺さんが亡くなり、残念な思いを抱えていたので、楽しみにしていました。

 

 資料館で受けたハンセン病に関する解説や映像によって、ハンセン病にまつわる歴史を知ることができましたし、再現された重監房を見て、資料館をひととおり見終わると、なおのこと、谺さんらの叫びが聞こえてくるようでした。

 彼らの願いは、根本的にはただ一つ、「人間らしく生きたい」ということです。外見が変わっても、「人間なんだ」という主張をひたすらに続けてきました。

 今、日本で新たにハンセン病に罹患する人は、年にゼロから数人なのだそうです。が、こうした「療養所」で隔離されて生きることはありません。感染力も弱く特効薬もあり、治る病気です。

 明治時代、ヨーロッパではすでにその治療法が確立され、通院によって完治する病気となっていたのに、日本では戦後も重監房を含む「隔離」は続きました。

 

 国は、いま静かに時間が過ぎるのを待っています。栗生楽泉園の入所者は圧倒的な高齢化で減少の一途をたどっています。「黙っていても彼らは滅ぶ」。

 患者たちは願っています。自分たちの生きて来た軌跡を歴史に刻むことを。この国で人間らしく生きられない人がいた歴史を後世に残し、「人権」を考えることに役立てたいと。「資料館」はその悲願の一つの到達点です。

 

 戦前、日本において「人」として扱われた基準は、「兵隊になれるかどうか」でした。病気を持つ人や障害をかかえた人たちは、「人」らしい扱いを受けられませんでした。健康や体力が基準です。

 現在、日本において「人」として扱われる基準は、企業にとって「利益を生み出せるかどうか」です。そして、「稼げる人」が「優秀」だと言われます。カネが基準のようです。

 

 しかし、人権とは本来そういう尺度で判断できるものではありません。誰かの損得とは無関係です。人を大事にすること、人間が人間らしく生きること、それが可能なことって何だろう。どんな社会だろうと、あらためて考える機会となりました。

 

 個人で「資料館」へ行っても、解説など受けられるそうです。ぜひ一度、行ってみてはいかがでしょう。

 

 今度は家族を連れて行きたいと思う私です。

 

 

 あ、写真はモノクロフィルムで撮ったのがあるんですが、いずれ現像してからアップしようと思います。