憲法が変えられようとしてることで、「中国や韓国との領土問題で、『弱腰だから、戦争できないからなめられている』と言われることに、何と言ったらいいんだろう」とか、「北朝鮮の問題もあって、『だから武力が必要だ』と言われれば、やむを得ない気がする」という声を、ある青年から聞きました。
私が候補者として街頭で演説していた時も、もっとも難しいと思ったのは、実は憲法の問題でした。短時間の街頭宣伝で、憲法の本質や武力を持たないことの意味をきちんと理解してもらうのは、なかなか大変です。
もし、日本が憲法を変えて、海外で戦争ができる国になったらどうなるでしょう。日本が近隣諸国との緊張を高め、摩擦を生みだし、戦争への危機は一層高まるに違いありません。
何しろ日本はかつてアジア諸国を侵略して回った国です。ドイツのように、民族あげて真摯に反省してもいません。そんな国が再び武器をとり、海外へ出かけることになれば、日本の国際的な信用は地に堕ちることになるでしょう。周辺諸国を恐怖に陥れ、警戒させることになるんです。
こうすることが、本当に「平和のため」になるんでしょうか。国際的な友好関係が築けるんでしょうか。
北朝鮮が国際的に孤立しているのは、武装し、武力で威嚇して自分たちの主張を通そうとする、「平和と国際秩序を乱す」行いをしているからであって、この挑発に乗って、日本が海外に対して武器を向けることが正しいとはどうしても思えません。
北朝鮮がミサイルを日本国土に撃ってくれば、自衛隊の力でそのミサイルを撃ち落とす。国土、国民を守るための防衛は、現段階ではすべきでしょう。
しかし、「ミサイルを撃った奴が悪い」と、北朝鮮へ出かけて「成敗」なんてことは絶対にやってはいけません。自分の身を守ることと、相手を攻撃してねじ伏せるのとでは、質的にまったく違います。
海外で攻撃を受けた米軍を助けにいく「集団的自衛権」だって、おかしな話です。かつて誰かさんが「友人が殴られるのを黙って見てるのか。助けに行くのが当然だ」と言いました。ちょっと聞くと「なるほど」と思うかも知れません。しかし、友人なら喧嘩を止めましょうよ。一緒になって相手を殴ってどうするんですか。
また、海外で戦争できる国になるということは、国の在り方そのものが大きく転換することになることも指摘しておきます。
戦争できる国になれば、いつどんなときでも戦争ができる状態にしておかなければなりません。「平和」とはおよそかけ離れた日常になることは明らかです。単に憲法の条文が変わるだけではなく、日常そのものが変わってしまうのです。
戦争の準備のために徴兵制がしかれ、兵力となる国民は片っ端からそのためにかり出されることになるでしょう。戦争に反対する勢力は、戦争する者にとって邪魔になりますから、思想統制も行われます。
こういう状況を想像するにつけ、背筋が寒くなります。
国会中継で女性議員が、「国家のために」なんて、憲法を変えることに賛成する話をしているのを見ると、「この人は、自分の身内を戦争に喜んで差し出すんだろうか」という思いがわいてきます。
「現状がこうなんだから仕方がない」のでしょうか。こういう「現状」をつくりだしたのは誰なんでしょうか。戦争したがってる「誰かさん」ではありませんか。
現状に合わないから憲法を変えるというのは、はっきり「間違い」です。憲法は、現状にあわせてつくったものではありません。「私たちはこんな国をつくります。国家はその目標に向かいます」という理想、国の在り方を掲げたものであって、現状が憲法とかい離しているなら、変えるべきは現状なんです。
そして、その現状を変えるためには、「戦争がいや」なら「いや」という意思表示を、国民自身が明確に示すことが必要です。「原発いや」「TPP参加するな」「消費税上げてくれるな」という思いは、国民自身がはっきりとアピールすること。この世論の盛り上がりが、そうしたがらない政治家の勝手な動きを縛り、国民の意思に沿う政治をさせる原動力になるんです。
この間、さまざまな分野で運動が盛り上がりながらも、思うように方向転換しない政治が続いて、これに対するあきらめも出てきているんだと思います。
しかし、「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」。・・・最近、某漫画のこのセリフ、あちこちで聞きますが(笑)、やっぱりあきらめないで、自分たちの取り組みを広げていくことが大切なんだと思います。
長くなっちゃいました。まだ言うべきことはあるんですけど。 今回はとりあえずこれくらいで。また機会があれば違う角度から書くことがあるかもしれません。