昨日、民青同盟の群馬県委員会の主催で「いじめ・体罰を考えるしゃべり場」が開かれました。
私の子どもたちもいじめられていましたので、この問題には関心が高く、「是非」とみんなで出かけました。私も、中学生のころにはいろいろとトラブルを抱えていましたし、いじめられた親としての思いもあります。今を生きる若者たちがどんな思いでいるのか、興味津津。ちょうど「参加させてほしい」と、元教員のはぎわら貞夫さんの申し出もあり、一緒にお願いして参加させていただきました。
元教職員やいじめられた子の親が、こういう場に参加するのは、興味はありつつ、一方では気が引けてもいました。が、いざ始まってみると、いじめを経験した本人、そしてそんな子を育ててきた親、そういう現場で働いていた教職員の多角的な発言で、それぞれに新しい発見があり、とても有意義な集まりになったと思います。
「いじめ」をどうとらえ、どうしていけばいいのか。これはとても難しく、根の深い問題です。
私が親として経験したなかで、教員の対応にがっかりさせられたことは数多く、苦心もしました。教職員のみなさんも、苦慮されている問題でもあるでしょうから、教職員を責めるわけにもいきません。
といって、そのときそのときに、いじめた加害者を呼びつけて謝罪させたところで、本人たちが本気で反省もしていなければ、何の効果もありません。でも、その子の性根が悪いとか、そういうことではないんです。ですから、その子を責めるわけにもいかない。
「そんなことをするのは、親のしつけが悪いからだ」と言い切る方もいらっしゃいました。しかし、その人の子が私の子をいじめていたという事実もあります。親のしつけのせいにして、親を責めるつもりも毛頭ありません。
つまり、親としては、「いじめをなくしたい」と思っても、そう簡単にはいかないことがいやというほどわかっていますし、今目の前でいじめられている子に、「なくならないからあきらめろ」なんて言えるはずもありません。怒りのやり場もなく...。
私は、「身の危険があったときには、自分の身を守るべくたたかいなさい」「自分の人格が傷つけられるようなことがあれば、先生に伝えなさい」と言い、「あなたが危険な目にあい、傷つけられるような場所(学校)へは行かなくてもいい」とも言いました。
一方で、なくせないいじめを、どうやったら我が子は克服できるだろうか、悩みました。
親には、子どもを最後まで受け入れる「逃げ場所」になる覚悟が必要ですし、一方で、学校へ行かなくても子どもを育てる覚悟も必要になります。我が家は共稼ぎ。実際にはとんでもない負担が、いじめられる方には強いられるのです。
幸い、我が子は深刻な不登校にもならずに卒業し、高校へ入学しました。定時制昼間部の高校は自由な校風。この環境の変化によって、我が子の受けた傷も少しずつですが癒えてきているようです。
まだ、いじめを乗り越えられたわけではありません。いじめられた経験をもつと、その心の傷が癒えるのには、途方もない時間が必要です。一生消えない心の傷もあります。しかも我が家はたまたま好転したにすぎません。
オトナの社会にも序列といじめはついてまわり、自己肯定のできない人が大勢。こんな社会の中で育てられる子どもたちです。自分たちが国をつくる主人公として活き活きと生きていける社会を、我が子たちに託したい。そのためにできることを精いっぱいやりたいと、「しゃべり場」を終えて思いを新たにした日でした。