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天気を調べていると、日記の色々な記事に会えて楽しい。
以前「長岡雲海公傳附録 巻一」を読んだことがあります。
長岡雲海公は、熊本藩主細川斉護の六男で、一時喜連川藩主の養子となり、明治政府の要職に就いた人物のようです。
この記事の中に
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「長州参謀世良周蔵も、全く会の奸計にて殺害に会ひたるよし、其次第は偽書を作り、仙藩を激怒させたるよしなり」
とあります。
では、密書は現存するのでしょうか。
藤原相之助著の「奥州戊辰戦争と仙台藩」では、
世良の密書の原本と言われる書状は、あちこちにあり原本は特定できないが、仙台伊達家や白石片倉家にはなかった。
として、藤原相之助氏自身は密書の原本は存在していたと推定している。
しかし、「防長回天史」を編集した末松兼澄博士は、「世良が大山に密書を送ろうとしたことは、果して事実かどうかはなはだ疑わしい、少なくとも正しい史料として読むべきではない」としている。
結論から言えば、良く分からないということであろう。
奥羽越列藩同盟の起爆剤となった密書の存在も真偽も良く分からないが、世間では史実のように通っている。
謎、楽しいですね、これだから歴史はやめられませんね。
これからは、全く私の推測です。
①損得を考えますと、密書の露見で列藩同盟が成立し、一番得をしたのは、会津藩と庄内藩だと思います。
としますと、会津には偽書を造る十分な動機があったはずです。
②密書は、仙台と米沢を「弱国二藩は恐るるにたらず」とあきらかに挑発しています。
③密書によりますと、密書が書かれたのは、閏四月十九日の八つ半(現在の午後三時頃)でその夜に世良修蔵は襲撃されますが、翌朝6時頃には会津藩は白河城を急襲して落城させており、段取りが良すぎる感じがします。
などの三点を考えますと、世良の密書が、会津藩の偽書だった可能性は十分あるような気がします。
ただ、会津藩だけで、密書でっち上げは出来ることではなく、仙台藩や列藩同盟の薩長嫌いが共謀して行ったのではないでしょうか。世良を殺した後に密書をばら撒く、そんなことがあるような気がします。
世良はどんな人柄だったのでしょうか、
明治九年に明治天皇の東北巡幸に随行した木戸孝允が、世良の墓に詣で、哀悼の歌を詠んだそうですが、
木戸孝允が確か日記に「新しい時代を創るためには、まだまだ戦が足りない」と書いていましたが、
世良はそれを忠実に守っていたのでしょう。
藤原相之助著の「奥州戊辰戦争と仙台藩」では、「世良の性格はどちらかといえば、感激し易い正直な純情家だったと見える」
また「世良は、根が人の好い男であったらしく、、彼が案外素直なところもあり、稚気もあることを知っている大越文五郎や坂元大炊らは、何も殺すまでのことはないと思っていたらしい」とあります。
テレビドラマとは大違いのようです。
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と以前に書きましたが、世良修蔵の性格が出ている史料を見つけました。
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【澤為量征討記録】の三月二十七日の記録です。
澤三位と世良修蔵は当日仙台にいました。当日の仙台は、「晴、、桜花沢山ニて此の節満開」でした。
そこで、「世良修三釈迦堂花見ニ参り今晩帰り申さず候事」となります。
確かに酒と女は好きだったのでしょうが、暗殺される50日前です。行く先も告げず、出歩き、翌日の帰参とは
あまりにも無防備です。
やはり藤原相之助著が指摘したように「世良は、根が人の好い男」だったのではないかと思います。
もしかしますと、一緒にはなを見たのは大越文五郎や坂元大炊あたりかも知れませんね。
ゲームを始めると真っ先に、どこかで誰かに殺されるのが「世良修造」でした。
誰なんだろうといつも思っていましたが、おかげさまでわかりましたよ。
本当は良い性格の人なのに、ひどい評価をされて、可哀そうですね。
私は、住まい柄、どちらかと言いますと、列藩同盟派なのですが、
戊辰戦争の両軍の兵士が書いた日記を読んでいますと、お互いに大変だなあと同情してしまいます。
土佐藩兵が給料を楽しみにして、休みの日は、鰹の刺身と胡瓜で一杯やるなど、官軍とは言え無事に帰って欲しいと思います。
時代や戦争に翻弄されるのは、個人の力ではどうしようもありませんねえ。
世良修蔵も、その一人だったような気がします。
ブログ、興味深く拝見いたしました。
良くても悪くても会津藩は幕末激動期に重要な地位にあったことは、間違いない事実だと思います。
全くの想像ですが、テレビドラマと違って、権謀術数に長けた部分が会津藩にはあったのではないかと思います。そうでなければ、幕末の動乱期に一方の雄として立つことは出来なかったように思います。
もっと、勉強してもらいたい。
仙台藩内にも世良修蔵氏に関する評価はいろいろあるようです。言葉も通じなかったでしょうから、誤解も多かったと思います。一般に世良氏の役としての一面を見る人は傍若無人なように書いていますが、人としての付き合いのある人には面白い人柄ととらえられてられているようです。いづれにしましても、世良修蔵氏を調べることは、奥州皆敵の密書をさぐるポイントとなることと思います。
東北だけでなく、山口県での世良氏の研究にも期待します。