幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

一橋慶喜公、あだ名は飛脚

2025-01-25 11:10:16 | Weblog
十五代将軍 一橋慶喜公は何かとやり玉に挙げられます。
その分、あたりへの影響力は大きかったのだと思います。
 「豚が好きな一橋」であだ名は「豚一」などは有名です。
只今、西本願寺の寺侍が残した記録を読んでい居りますが、
あだ名が出て参りました。
慶応三年三月の記録です。

曰く「昨年 家茂将軍葬去後、一橋月之うちニ両三度ツツ、
   大坂往還致候ニ付 飛脚、飛脚ト浮説候事」
また、慶応三年九月の記事に、こうもあります。

曰く「大坂御城へ異国人入城申付、日々之饗応有之、
   慶喜将軍異人姿ニ相成 、二条御城より六日、
   月毎ニ一騎掛ケ往還被致候ニ付、飛脚将軍ト
   称し、殊之外評判悪く相成候事}
とあります。

月に二三度が六日毎と大坂への往復が多くなっています。
異国人姿とは背広姿と思われますが、将軍が一騎掛けなど
するものでしょうか。

ともあれ、筆者は西本願寺の寺侍なので、長州びいきです。

当世のあだ名「増税メガネ」よりは、害のない分「飛脚」の方が
まだ良いような気もします。
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2 コメント

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Unknown (八軒家絵巻)
2025-02-10 14:49:51
いつもお世話になります。当時の西本願寺寺侍に『新撰組始末記』を著わした西村兼文がおりますが、それによりますと、元治元年(1864)五月二十日、天神橋橋上で西町奉行の内山彦次郎を暗殺したのは「新選組」であるとしています。事件当時は西国遊学中で寺に戻ったのは事件の1年後。西本願寺はすでに新選組の屯所となっていましたが、兼文は快く思っていなかったようです。ただし、尊皇攘夷派の御陵衛士(伊東甲子太郎ら)とは交流があり、彼らから情報を入手した可能性があります。現在、読み解かれております「西本願寺寺侍の記録」にはそのあたりのことは出てこないでしょうか?
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御教示ありがとうございます (いろは丸)
2025-02-15 16:46:50
御教示ありがとうございます。
西村兼文のことは始めて知りました。
本願寺は石山合戦いらい毛利氏との付き合いがふかく、徳川氏を嫌っております。
読んでいる文書には、天候記事が無いため読み流ししておりました。
また、出してきて西村兼文の名前がないか、新撰組関係の記述がないか、見て見ます。
また、御連絡いたします。
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