おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

ローカル私鉄の旅。46。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その2。

2023-10-22 18:56:22 | ローカル鉄道

道志山方向。

             

「下吉田駅」でたくさんの外国人が下車します。

            

開業当時は貨物の取扱を行っていた駅でした。
駅前にはロータリーもあり、駅舎は建築当時、東洋一の建造物と言われていた名古屋駅を模して建てられました。
周辺にはアヤメの群生地で有名な新倉山もあります。また平成21年7月18日(土)に、工業デザイナーの水戸岡鋭治氏デザインによる駅舎に生まれ変わりました。
今回のリニューアルでは、下吉田駅が開業した当時の新しさと驚きを再び感じ取れるよう、レトロな味わいを生かしつつ、21世紀モダンの駅に生まれ変わることをコンセプトに、天井画を大胆に配置した吹き抜け、富士の稜線をイメージしたベンチ、センターテーブルが配されたコンコース等、今までの駅には見受けられなかったゆとりある雰囲気を演出し、駅にいながら富士山や桜並木などの風景を楽しめる空間を作っています。

    (「富士急行線」HPより)

まもなく終点の「河口湖」駅に。

       

「トーマスランド25周年記念号」。

※「トーマス号」というと、「大井川鐵道(金谷~)」の「きかんしゃトーマス」が有名。

                      

たくさんの人が下車、改札口が大混雑。観光バスに乗り込む人、河口湖へ向かう人、・・・。

「河口湖」駅。12時少し前に到着。

富士急行線の終着駅、河口湖駅は平成18年にリニューアルオープンをしました。
富士登山のシーズンにはたくさんのお客さまで賑わっております。また、河口湖駅からも雄大な富士山を見ることができます。河口湖はもう目の前。
湖畔にはロープウェイ、遊覧船や周遊バスなどで西湖方面など、見所はいっぱいです。
また河口湖駅内にあるカフェ『ゲートウェイフジヤマ』では、「信玄ソフト」や「吉田のうどんたいやき」などのオリジナルスウィーツをはじめ、山梨県の名産品などをお土産として発売しています。河口湖観光のお帰りの際、是非お立ち寄りください。

(「富士急行線」HPより)

※家を出てからJR、富士急行線の普通電車を乗り継いで、約3時間30分。

右手に富士山。山頂にほんの少し雪が。

駅舎の三角屋根と重なるように。

「ほうとう不動河口湖駅前店」。

            けっこう並んでいます(外国人多し)。

「ほうとう」は山梨県民のソウルフード。山梨には、物事がうまく進んだときに「うまいもんだよ、かぼちゃのほうとう」という言い回しがあるほど、みんなに親しまれている郷土料理です。栄養満点で体がぽかぽか温まるので、寒い冬はとくに美味しく感じられます。

               

ここで「吉田のうどん」も紹介しないと。

吉田のうどんって? 

日本一硬い麺に、醤油・味噌の出汁が絡むこだわりの郷土料理。
富士吉田市が誇る郷土料理・吉田のうどんの最大の特徴は、歯ごたえとコシがとても強い麺。 噛めば噛むほど素材と出汁の旨みが口いっぱいに広がる麺の虜になる人は数知れず、連日うどん店にはたくさんの人が訪れます。 麺や出汁の味を楽しんでもらうため、かけうどんやつけうどんなどシンプルな味付けのうどんが多く、キャベツや馬肉がトッピングされていることが一般的。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローカル私鉄の旅。45。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その1。

2023-10-22 18:38:02 | ローカル鉄道

JR大月駅から乗り換え。車内の様子。                          

大きなザックを背負った外国人がたくさん。

          次第に混んできて、日本語よりも英語、中国、他の外国語と様々な会話が飛び交う。地元のお客さんは、静かに。

富士急行線 

山梨県大月市大月駅から富士吉田市富士山駅を経て南都留郡富士河口湖町河口湖駅までを結ぶ、富士山麓電気鉄道が運営する鉄道路線の総称である。駅ナンバリングを構成する路線記号はFJ。大月駅から富士山駅までの大月線(おおつきせん)と、富士山駅から河口湖駅までの河口湖線(かわぐちこせん)の2路線で構成されている。両線で一体的に運行されている。

JR東日本・央本線の大月駅(標高358 m)から富士山駅でスイッチバックし、富士山麓の河口湖駅(標高857 m)まで登る。地元住民の生活路線であると同時に、首都圏から富士山・河口湖周辺への観光路線でもある。正式には、途中の富士山駅を境に大月線と河口湖線に分かれているが、列車運行上は1路線として一体的に運用され、公称でまとめて「富士急行線」と案内されている。なお、2022年4月1日富士急行は鉄道事業を富士山麓電気鉄道として分社化したが、当路線については路線名称の変更はなく、案内上も変化はない。

大半を相模川上流の桂川、中央自動車道富士吉田線と国道139号(富士みち)が並行する。最急40 勾配と半径200 m前後の急曲線が小刻みに連続する線形を持つ山岳路線である。富士急行線内で特急列車富士山ビュー特急」が運転されているほか、特急「富士回遊」や普通列車などのJR中央本線高尾新宿東京方面との直通列車も設定されている。

  (この項、「Wikipedia」より)

富士山に一番近い鉄道 

富士急行線は全長26.6キロで、大月駅から河口湖駅まで運行しています。
大月駅から富士山に近づくように進み、標高差は約500mあります。
2013年に富士山が世界遺産となり富士五湖エリアは観光客や登山者から人気があります。(「富士急行」HPより)

※ 往路は普通電車。復路は

 

座席もいっぱいで、写真を撮るためにウロウロも出来ず。座ったまま、スマホで撮るしか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足尾銅山跡を訪ねる。その6。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-10 18:38:50 | ローカル鉄道

古河橋。

古河橋は、足尾銅山施設の近代化の一環として渡良瀬川に架設されたもので、明治23年に竣工した。ドイツ国ハーコート社製の鋼製のトラス橋で、工場であらかじめ製作した部材を、現場でボルト接合のみで短期間で簡易に組み立てられる工法が用いられている。
古河橋は、足尾銅山において近代最初期に整備された施設の中で、ほぼ完存する唯一の遺構であり、歴史的に価値が高い。日本でも数多く架設されたドイツ国ハーコート社製のボルト接合による橋梁の中で、原位置に残るわが国現存最古の遺構であり、西洋の異なる国々から先端技術を導入し、短期間で近代化を成し遂げたわが国橋梁分野の技術的展開を示す遺構として重要である。

(この項、「文化遺産オンライン」HPより)

足尾本山駅があった本山地区は、足尾銅山の操業の中心地であった。その本山地区と社宅などが立ち並んでいる赤倉地区の間には松木川が流れているため、両区を結ぶために1884年(明治17年)に木造の直利橋(なおりばし)が架設されたが、1887年(明治20年)4月8日に松木村の大火で消失してしまった。そのため、足尾銅山から足尾製錬の精錬所までの鉱石運搬用として、直利橋の跡にドイツ人の設計により本橋梁が架設されている。

1891年(明治24年)には、鉄道道路併用橋として日本初となる実用化された単線の電気鉄道が施設されている

その後は、道路橋にそのまま転用されており補強工事も行われていたが、本橋梁の老朽化に伴い、南側に新古河橋が1993年(平成5年)に架設されたため、現在は歩道橋として整備・保存されている。なお、現在は橋の入り口に柵が設けられ立ち入り禁止となっている。

本橋梁は日光市指定文化財に指定されたのち2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定された。また、土木学会による「近代土木遺産2800選Bランク」にも選出されている

          

間藤からの架線跡。右手の建物内に。           

左の建物内に向かっていました。

     この奥一帯が「足尾製錬所」跡。建物内にあったのが「足尾本山駅」。

対岸から足尾製錬所跡。

新古河橋から下流を望む。

通りの反対側に、日本の国語教育に大きな影響を与えた「倉沢栄吉先生」解説板。

上流に向かいます。

             

かつて聞いた話では採掘や煙害などによって、周囲の山々はまったくの不毛の地になってしまった、と。

1970年代のようす。

                                                                                    (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

       中央が足尾銅山本山地域。

緑色と茶色の部分が識別できない。上流は、ほとんど地肌が丸出しで、草木の生えている様子はなさそう。

50年ほど経過して、今はどうなっているか?                                  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足尾銅山跡を訪ねる。その5。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-09 18:32:44 | ローカル鉄道

水量発電所跡。

                解説板の奥に当時の導水管が保存されています。

            

間藤水力発電所は、坑内排水用動力として坑内に設置した蒸気ボイラーの排煙問題解決のために導入されたのが契機とされています。ドイツのシーメンス社の提案に基づき、明治23年に完成しました。水源は久蔵沢、深沢とし、2.9kmに及ぶ水路を木銿で通した。落差32mを確保して出力90キロワットで運転を開始し、坑内排水、竪坑捲揚機、照明の電化が実現しました。しかし、渇水期には安定した電力を得ることが難しいため、その後、足尾地内に小規模発電所を相次いで建設されました。明治39年に細尾発電所(出力2000キロワット)が完成した後、間藤水力発電所は足尾電燈株式会社に払い下げられて、町民に電燈電力を供給しました。その後、間藤水力発電所がいつまで使われていたかは定かではありませんが、現在、落下部の水圧管の一部と渡良瀬川河床に発電所の基礎構造物が残されています。

                

                                         (「日光市」HPより)

渡良瀬川。背後は急峻な崖に。

先に進みます。

            「足尾」。 

   

          人とほとんど出会いません。 

「上間藤」。   

            

対岸左手奥には、「旧本山小学校」。 

       支流のようす。

 

横道にも低い屋根の家が並ぶ。

足尾一の賑わい 赤倉」。

足尾銅山本山跡に着きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足尾銅山跡を訪ねる。その4。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-06 18:30:23 | ローカル鉄道

午前11時41分に「間藤駅」着。「銅山(あかがね)街道」を北上します。

江戸時代のはじめ、足尾銅山は幕府の直営とされていました。足尾で精練した御用銅を江戸へ運ぶための道として、銅山街道(あかがねかいどう)が設けられました。この街道は、まさしく銅の道でした。足尾を出た御用銅は、沢入(そうり)・花輪・大間々(のちに桐原)・大原・平塚の、5つの宿を順番に送られたのち、利根川を下って江戸浅草の御蔵入りとなりました。
 この銅山街道が整備されたころ、はじめは大間々宿に銅問屋が設けられていました。しかしその後、大間々が天領でなくなったために、江戸時代の中ごろになって桐原宿に移されました。桐原の藤生家では、今でも銅蔵(どうぐら/銅をいち時保管する蔵)と、その役めに関係のある文書などが残されています。
 このように、大間々、桐原は御用銅を運ぶための、たいせつな場所でした。そのことからも、人がにぎわう宿場町としても栄えました。また、銅山街道は、大間々の奥にある村や集落へ、ふだんの生活に使う品物などを送るため、また、山地の産物を集めるなど、物資の集散地としての大間々町を発展させるのに役立ってきました。

歴史

慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見され、慶安元年(1648年)に幕府の代官である諸星庄兵衛が銅山奉行を兼任して、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わる。当初の道筋は、足尾村から渡良瀬川右岸沿いを南下して上野国勢多郡沢入村(東町沢入)・花輪村(東町花輪)を経て、山田郡大間々村(大間々町大間々)から大間々扇状地を南進して、利根川の平塚河岸(境平塚)に至るものであった

寛文年間(1661年-1673年)に、幕府代官の岡上景能が銅山奉行を兼任して、笠懸野の新田開発によって笠懸新田(新田郡大原本町村、大原町)が成立し、村の中心に大原宿が置かれた。延宝年間(1673年-1681年)から天和年間(1681年-1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれた

元禄年間(1688年-1704年)に、銅の積出港が平塚河岸から下流の前島河岸(前島町)に、銅蔵が平塚村の北爪家から亀岡村(亀岡町)の高木家に移り、大原本町村の南方の上江田村(新田上江田町)から東南に向かって亀岡村・前島河岸に至る道筋に変わった延享4年(1747年)に、大間々村が幕府領から前橋藩領に編入、銅蔵が大間々村の高草木家から西隣の桐原村(大間々町桐原)の藤生家に移ったことで、足尾銅山から沢入宿・花輪宿・桐原宿・大原宿を経て亀岡村・前島河岸に至る道筋が確定した

慶応3年(1867年)の大政奉還後、銅山の管轄は日光県などを経て栃木県に移り、明治10年(1877年)に古河市兵衛の経営となる。明治23年(1890年)細尾峠に索道が架設され、大正元年(1912年)12月に足尾鉄道が足尾まで達すると街道は寂れたが、昭和37年(1962年)に足尾-大間々間が国道122号の一部に指定され、現在では国道を銅山街道と通称している

旧家らしいおうち。

                

          北部の玄関口 下間藤 往時の賑わい。

右一帯に住宅が広がっていた。

このような説明板が各所に設置され、足尾銅山を中心とした足尾町のかつての様子が掲示されています。

足尾町(あしおまち)

関東地方の北部、栃木県西部に存在したである。足尾銅山松木渓谷で知られる。銅山全盛時の1916年には県内では宇都宮に次ぐ人口38,428人を抱えていた。

1973年の足尾銅山閉山後は、過疎化が著しく、合併直前の人口は3,000人台となり全盛時の1割にも満たなくなった。

2006年3月20日に、足尾町や(旧)日光市などの周辺自治体が合併し、(新)日光市の一部となった。

歴史

 

旧・足尾町の歴史は、足尾銅山の歴史そのものです。1610年(慶長15年)に銅山が発見されて以来、銅山は幕府の管轄下におかれ、多くの労働者が採掘と製錬を行い、江戸の中期には足尾千軒と呼ばれるほどの繁栄を示しました。

その後一時の衰退をみますが、1877年(明治10年)、古河市兵衛の経営となり、先進的な技術と設備の導入により、生産が急速に伸び、1890年代(明治20年代)には日本産銅の40%を産出する日本一の銅山となります。その後も次々と鉱脈が発見され、大正以降も発展は続き、当時の人口は宇都宮市に次ぐ38428人(1916年大正5年)で県下第2位。

しかし長い繁栄を続けた足尾銅山も産銅量の減少と時代の流れの中で1973年(昭和48年)2月28日、その長い歴史に終止符をうちました。

(この項、「日光市」HPより)

街道筋の家並み。

              屋根の低い家が続きます。空き家が目立つ?

旧足尾線の線路跡が右から左へ。

                   間藤駅から足尾銅山駅まで。  

間藤駅方向。 足尾銅山方向。

             渡良瀬川に架かる鉄橋と人道橋跡。

対岸に「本山小学校」跡があります。

                          (「Googleマップ」より)

2005年3月末をもって、足尾町立本山小学校(栃木県日光市足尾町上間藤16-1)が閉校しました。

1892年に足尾銅山を経営していた古河氏が私財を投じ、私立古河足尾銅山尋常高等小学校を設立。戦後、公立の学校となり足尾町立本山小学校と改称しました。同校は、上間市街地の山の中にある大きな校舎が特徴の学校。当時は足尾銅山の最盛期で、多くの銅山関係者の子どもたちが通学していました。しかし、児童数減少により2005年に閉校。足尾町立足尾小学校へ統合となり、113年間の歴史に幕を閉じました。

現在校舎はそのままの形で現存。敷地内にあった講堂は登録有形文化財に登録されており、足尾銅山の歴史を伝える遺構として残されています。ゆかりのある方は、この場所にもう一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

(このこう、「<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/4c/7ef0de0de4ff0e9565bfa3195e9e5c01.jpg">」HPより)

       

眼下に渡良瀬川(松木川)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする