右折すると、「江見駅」。その角にあるおうち。
南国風の大木。フェニックス(Phenix)カナリーヤシ :
古代エジプトの想像上の鳥で、不死鳥と訳される。フェニックスはアラビアまたはフェニキアに住み、史実タキトゥスによれば、500年毎に太陽の都ヘリエポリスを訪れ、生命の終わりが近づくと香木を山と重ねて火をつけ、自らを焼き、たえなる歌声とともに死に至るといわれている。そしてその灰の中から蘇るのが次代のフェニックスであり、同時に二羽のフェニックスはこの世に存在しない。
ギリシア語のフォイーニックスは、フェニキア、紫、ナツメヤシの三つの意味を持つ。そこで、生地はフェニキア、王者の色としての紫の色を身にまとうといい、勝者のシンボルとしてのナツメヤシと同一視される。
「江見駅」・「江見駅郵便局」。
- 2019年(令和元年)7月1日:鴨川市への乗車券類販売委託(簡易委託)を解除し、終日無人化。
- 2020年(令和2年)8月31日:郵便局と一体化した駅舎に建て替えると共に、江見駅郵便局(日本郵便)に乗車券の販売や列車の案内業務等を委託。
- 2021年(令和3年)4月27日:農産物集荷場「JRE農業ステーション江見駅」を開設。
日本郵便が駅業務を受託している安房鴨川駅管理の業務委託駅。平日の郵便局営業時間内は当駅舎内にある江見駅郵便局が駅業務の取扱を行なっている。自動券売機は設置されておらず、ICカードチャージ機、簡易Suica改札機、乗車駅証明証発行機が設置されている。また駅舎(局舎)内にはゆうちょ銀行のATM、水洗式トイレ(男女別)が設置されている。
- 2018年(平成30年)6月12日:「日本郵便とJR東日本の地域・社会の活性化に関する協定」に基づき、当局業務と江見駅窓口業務の一体的な運営を開始すると発表。郵便局が駅業務を請け負うのは当局が全国初の事例である。
- 2020年(令和2年)8月31日:江見郵便局が当駅舎内に移転し、江見駅郵便局へ改称。
駅内(局内)。
郵便ポスト。
かつてあった郵便列車「クモユニ74012」をモデルにした、とのこと。
クモユニ74形
1962年(昭和37年)に登場した日本国有鉄道(国鉄)の郵便・荷物合造電車である。
1950年(昭和25年)の東海道本線東京口の客車列車電車化により湘南電車80系が投入されるのに合わせて、80系と連結する鋼製郵便・荷物電車としてモユニ81形(1959年の称号改正後はクモユニ81形)が登場していた。1962年には同線区の新性能化により近郊形電車の111系が投入されることになったが、クモユニ81形では111系との併結が不可能なため、111系と併結可能な新たな郵便荷物電車が必要となった。
当初は111系をベースとした新性能郵便・荷物電車(クモユニ111形)を新製する案、また当時101系の投入で余剰となっていた72系の車体に乗務員室や側引戸を新設する案が検討された。しかし前者は1M方式の主制御器などを開発する必要があったこと、後者は種車の台枠の老朽化が著しく亀裂などの兆候も見られたことから、最終的には72系の台枠を補強して全金属製車体を新製することになった。このような経緯から登場したのが本形式である。
クモユニ74形は他線区の郵便・荷物輸送の電車化にも投入され、線区による併結車種の違いから東海道本線東京口用の0番台、名古屋地区用の100番台、東北・高崎線用の200番台に区分された。
(この項、「Wikipedia」より)
歴史
起源については、明治時代の鉄道開業初期にまでさかのぼるといわれており、正式な開始は1872年(明治5年)6月13日となっている。当初は単に郵便物を運ぶための手段であったが、1892年(明治25年)には、専用の車両が作られ、車内で郵便物の仕分けなどを行うようになる。以来、全国に郵便車が走り、東京駅や上野駅、大阪駅など主要な鉄道駅では郵袋(行き先別に仕分けした郵便物を収納した麻袋で、「票札」というあて先郵便局のタグがついていた)、小包の積み下ろし作業が行われ、各地に郵便物を運んでいた。郵便車は各鉄道郵便局の職員が乗り込んで、郵便局としての機能の一部を持ち、車体側面に設けられた投函口[注 2]と駅のポストに投函した郵便物では、あて先方面に向かう郵便車内で消印が押されることが多かった。この消印を「鉄郵印」と呼ぶ。
専用の郵便車は、戦前は逓信省、戦後は郵政省が所有していたが、荷物車あるいは座席車またはその両者との合造車も多く存在し、合造車の場合は国鉄など鉄道事業者が所有していた。車種としては客車が多かったが、クモユ141形電車など電車や気動車にも存在した。郵政省の予算で製造するため国鉄の車両より設備がよく、特に車両冷房については同時代の旅客車両よりもいち早く取り付けられたものが多かった[4]。これは、車内で作業する職員の発汗による郵便物の汚損を防止するという目的があり、その構造上窓が少なく郵便物が飛ばされてしまう可能性があるため開閉式の窓も取り付けられず、前述の発汗によって水性インクで書かれた宛先が滲んでしまい判読不能(=配達不能)が相次いだことから冷房装置の取り付けが必須であったという背景もある。
鉄道郵便には主に3つの種別があり、職員が郵便車内で郵便物を区分けし集配最寄駅で郵袋、小包を積み下ろしする取扱便、職員は乗務するが区分け作業を行わず集配最寄駅で郵袋、小包を積み下ろしするだけの護送便、職員が乗務せず施錠したまま郵袋、小包を運ぶ締切便に分けられていた。
鉄道郵便車を使った輸送は、戦後の1970年代まで国内の郵便輸送の主役で、幹線や亜幹線に郵便車を連結した列車が多数運行されており、郵便局の立地も鉄道輸送に対応していた。例えば東海道本線では神戸方(下り)の先頭に郵便車が連結されたため東京・名古屋・京都・大阪の各中央郵便局はそれぞれの駅前の神戸方に立地しており、郵便車での受け渡しが便利なようになっている。
郵便番号体系も鉄道輸送を前提とした設計がなされ、今も一部にその名残がある。事例としては、田原本局(奈良県磯城郡田原本町)が王寺局(同北葛城郡王寺町)より分岐した枝番になっている、愛知県北設楽郡豊根村富山(旧富山村)は静岡県浜松市天竜区の水窪郵便局の枝番で現在でもJR飯田線を経由し集配を行なっている、小牛田局(宮城県遠田郡美里町)から古川局(同大崎市)へ分岐していた、などがある。
1971年(昭和46年)をピークに飛行機や高速道路網の発達でシェアを落とし、1984年(昭和59年)1月末を以て取扱便の休止、1986年(昭和61年)9月限りで残されていた護送便・締切便も休止となり、郵政省が所有していた鉄道郵便車は廃車された。これにより郵便車を使用した鉄道郵便輸送は全廃となり、コンテナ締切便(当時は全国で14便)が残るのみとなった[5]。郵便輸送全廃に伴い廃車となった郵便車のなかには、郵政省所有だったため転用が利かず、クモユ143形や一部のスユ15形の様に製造から4年しか使われなかったものもある。郵政省としても自省の国有財産を鉄道車両だからといって無償・格安で国鉄に譲渡するわけにはいかず、国鉄も翌年に分割民営化を控えており、特定地方交通線や荷物輸送の廃止などで車両が大量に余剰となっていた時期である。また、転用に際しては扉や窓の増設、座席や冷暖房装置の取り付けなど多額の改造費がかかるため、国鉄も引き取るメリットが存在しなかった[注 3]。
なお、その後の事情の変化(瀬戸大橋や青函トンネルの開通など)により、2009年(平成21年)現在では日本貨物鉄道(JR貨物)のコンテナ貨物列車によって、航空禁制品[6]ならびに特に速達性の要求されない郵便物が鉄道輸送されている[7]。また、宅配便業者の一部は貨物鉄道を使用しており、佐川急便と日本貨物鉄道(JR貨物)によるスーパーレールカーゴのようなチャーター便も存在している。
2006年(平成18年)、新越谷郵便局(旧:郵便事業新越谷支店)が鉄道コンテナ輸送の利便性を考慮して越谷貨物ターミナル駅の至近に開局し、その立地を生かして2007年(平成19年)以降は冊子小包等の大量差出の引受を担当している。
内房線、外房線各駅で見かけるポスター。
こ線橋から。右に駅舎・局舎。
駅の西側には山並みが。
内房線下り線ホームにて。
駅と郵便局が一体化している、JRとして全国初(唯一)の「江見駅郵便局」を訪れたのは、ラッキーでした。
ただ、郵便局の受付には10人ほど来ていましたが、駅の乗客は小生1名でした。
次回は、江見駅から南三原駅まで歩き、そこから館山まではバスで移動しようと、・・・。
次回で「伊南房州通往還(房総東往還)」を終了、船橋~館山の「房総往還」と結びつくことになります。