丘の上から海岸を望む。
今年春、海岸におよそ30頭のイルカが打ち上げられたことがありました。
午前6時半ごろ、千葉県一宮町の海岸で、サーフィンをしていた女性から「波打ち際にイルカが打ち上げられている」と通報がありました。
一宮町役場によりますと、海岸のおよそ500メートルにわたってイルカおよそ30頭が打ち上げられています。そのうち、およそ5頭は死んでいることが確認され、役場などが対応にあたっています。
(「TBSテレビ 2023年4月3日(月) 10:26」より)
広場には、
「芥川龍之介愛の碑。」
芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。
当時彼は吉田弥生という女性に初恋し 激しい相愛の仲になったものの 養家(彼の母の実家)芥川家が士族 吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。
彼の親友堀内利器はそれを見かね 堀内の故郷一宮に誘い 大正三年七月中旬からこの地に滞在した。
しかし 彼女への恋情はいよいよ深くなり 止宿先で綴った悲恋の歌の一つに
美しき人妻あらむ かくてああ
わが世かなしく なりまさるらむ
もう美しき彼女は自分のものにはなり得ないという 一宮時代からはじまる悲恋の苦悩こそは 人間の醜いエゴイズムを古典の世界をかりて表現したユニークな芥川文学を誕生させた。
大正五年二月出世作「鼻」が恩師夏目漱石に賞賛を受け華やかに文壇にデビューし 失恋の痛手も癒えて 再び思い出の地一宮に 久米正雄と二人で訪れ 一宮館の離れ家(現在芥川荘として保存)に止宿した 大正五年八月十七日から九月二日まで
その時第二の恋人塚本文子宛に「文ちゃん」ではじまる有名な求婚の手紙が身を結び 新しい芥川人生が出発した。
当時 夏目漱石宛に太陽と海と空と砂丘の大自然を背景とした一宮海岸に青春を投げ出している楽しい様子を また晩年にも「微笑」「海のほとり」と題してこの一宮の思い出を書いている。
今日 青春芥川龍之介のロマンスを記念し 郷土の鉄道作家故上田廣氏の発想どおり「芥川龍之介愛の碑」とした。
また新たなる感慨を禁じ得ない。
隣は、この碑を建てることに尽力した上田氏の碑。
「黄塵碑」。
全景。
ここには、かつて「国民宿舎 一宮荘」がありました。その跡地になります。
「一宮海岸広場マップ」。
ここから「一宮館」にある「芥川荘」を訪ねます。
「延宝地震の再来想定津波高」。遥か目の上です。
※延宝(房総)地震
延宝5年10月9日(1677年11月4日)に房総半島東方沖付近で発生したと推定される地震。規模はM8 - 8.34とされている。「延宝地震」とも呼ばれる。房総沖地震の一つと考えられているが、震央位置については諸説あり、詳しい地震像については解明されていない。
地震動による被害が確認されないのに対し、津波被害が顕著な津波地震との見方がある。約半年前には1968年十勝沖地震に類似し、三陸沖北部が震源と推定されている延宝八戸沖地震があった。
地震津波の記録
延宝5年10月9日夜五つ時(亥刻)(1677年11月4日20-22時頃)、陸奥岩城から房総半島、伊豆諸島および尾張などにかけて大津波に襲われた。
「冬十月九日癸丑、常陸水戸陸奥岩城逆波浸陸」(『野史』)など、10月9日夜に津波が上ったとする記述は多く見られるが、地震動の記録は少なく、震害が現れるほどの烈震記録は確認されていない。地震動の記録には以下のようなものがある。
- 「九日岩城大地震諸浜津波打上ヶ」(岩城領内『慶天拝書』)
- 「夜清天静ニて、五ツ時地震震動致シ沖より津波上ヶ」(下総銚子『玄蕃先代集』)
- 「十月九日夜の五つ時分少しの地志ん有之、辰巳沖より海夥鳴来り」(上総東浪見(一宮)『万覚書写』)
- 「晴天、夜地震三度」(江戸『稲葉氏永代日記』)
「一宮海岸海水浴場」。
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