おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

2023-12-16 18:45:26 | 房総東往還

右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。

複雑でユニークな屋根。

こちらは房総らしい屋根のおうち。 

「長者」。

一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)

「飯島喜美」記念碑。

匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ 東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導 モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)

・ひろひろと夷隅の川の海に入る 岬のかなたに虹立ちて居り

・よしきりのここだ来啼ける河口に かかる木橋は年古りにけり

・虹かゝる岬のはての叢松は 小さく群れて目にさやかなり

隣には宮本百合子の文が刻まれています。

うらゝかな春は きびしい冬のあとに来る 可愛い蕗のとうは 霜の下で用意された。

・・・

 イチョウ並木。

「国道128号」と交差。

「外房黒潮ライン」と名付けられています。

           往還道は、正面の道に。

「国道128号」上総一宮方向を望む。

「三門駅」方向へ進みます。

「江場土橋」。

「江場土川」。下流方向。

           

穏やかな房総の夷隅川にはこんな民話が残されています

~夷隅川の河童どん~

昔むかし、天神様のお祭りの見世物小屋に河童の親子が出されていたそうな。
珍しいものだから、たくさんの見物人でにぎわっていたが、それを見た江場土村の者たちは腰を抜かさんばかりに驚いた。
「おらほの村の氏神様(六所神社)では、河童どんを水の神様としてうやまっているのに、見世物にするとはあんまりだ」
急いで村に戻り、みんなして六所神社の神主さんにお願いした。
「神主さん、あんとか河童の親子を助けてやって下せえ」
話を聞いた神主さんは、急いで見せ物小屋にかけつけてわけを聞くと、この河童の親子は悪さばかりの困りものの河童だったので、捕まえられて見せ物小屋に売られてしまったのだそうな。
神主さんはこの河童の親子を可哀そうに思い大金を出して買いとると、よく言い聞かせ、六所神社の裏を流れる「後っ川」に放してやったそうな。
この川は、鴨根の清水寺の山から流れてきて夷隅川の河口に出るが、上流にある将監淵という深い淵に住みついたこの親子の河童を、村人たちは「将さん河童」と呼ぶようになったそうな。
それからは、他の村がいくら日照りで困っても、将さん河童が、夜のうちに将監淵から田畑に水を汲んで来てくれたおかげで、江場土の村だけは水に困らなくなったそうだ。
そんなことで、村人たちも河童を大切にし、きゅうりやぼた餅を供えてやってたそうな。
そんなある年の夜、大雨が降って、江場土の橋が流されてしまった。
とある家の嫁さんが急に産気づいて苦しみ出し、家の者が川向うの産婆さんのところへ連れていこうとしたが流れが早くて船が出せない。困っていると、将さん河童が現れて、
「おらたちが、向こう岸の産婆さんの所まで連れていくから安心しな」 と、嫁さんを背中に乗せ、水かさが増して流れの早い川を渡り始めた。 河童の親子は何度も何度も流されかかったが、とうとう向こう岸までたどりついて嫁さんを陸に渡した。そして、親子の河童も岸に上がろうとしたが、どうしたことか、足元の岩に、つるりんとすべって、まっさかさまにひっくりかえると、荒れ狂う水の中に落ちてしまった。
その後、嫁さんは無事に男の子を産んだが、親子の河童はそれからはいつになっても姿を見せなかった。
村の衆は今までの事は河童の親子の恩返しに違いないと言いあったそうな。

いすみ市教育委員会発行「いすみの民話」より

この項、「」HPより)

この先に上記の「六所神社」があります。


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