全員解雇と大量検挙でつぶされた東京日暮里の栄進社150名ストライキ! 1925年の労働争議 (読書メモ)
参照 協調会史料(合資会社栄進社争議の件1925年3月)
栄進社争議
東京日暮里にある鉄建具製造合資会社栄進社は、労働者150名中、日本労働総同盟関東鉄工組合日暮里支部に81名が加入していた。1925年2月18日、会社はそれまでも過酷な労働と虐使と搾取に耐えていた150名全労働者に対し、さらに残業や夜勤労働の強制を命じ、応じない者には三分の歩合を撤廃すると発表してきた。今までの劣悪な生活に加え、その上、連日の残業や夜勤では労働者の健康はたちまち破壊されてしまう。危機感を持った関東鉄工組合日暮里支部は、2月20日以下の要求書を栄進社に提出した。
(要求書)
一、賃金3割増
一、残業代の値上げ
一、出張手当
一、日曜・祝祭日の休日出勤手当は5割増し
一、退職手当
一、解雇手当
一、休憩時間の制定(午後9時より15分、午後3時より15分、残業の場合は5時より30分間)
一、兵役手当の制定
一、疾病及び傷害手当の改正
この要求は、どれもこれも労働者にとって切実な真っ当な要求であった。しかし栄進社は交渉すら拒否し、要求を全面的に拒絶してきた。その上2週間のロックアウト(工場閉鎖)で組合に攻撃してきたのだ。
(150名スト決行)
2月22日から150名がストライキに突入した。
2月23日、栄進社争議団と関東鉄工組合日暮里支部から東京市内の同業他社の労働組合に向けて、「栄進社からの仕事の一切はこれを拒絶し身をもって我らを応援せよ!!!」の檄文が発せられた。
(全員解雇)
2月25日、栄進社はスト参加者労働者全員の解雇を発表した。
3月1日、栄進社糾弾演説会(約250名)。弁士は関東鉄工組合員、布施辰治弁護士、東部合同労働組合など。警官が「弁士中止!」を乱発し、ついには「解散命令」により演説会は中止させられた。
(裏切者)
3月2日、軟派(裏切者)組合員3名が組合集合所を抜け出し、工場役員宅を訪ね、「軟派の者に限り、従来通り使用する」と会社から口約束を取り、その後3名はひそかに他に動揺しているとおぼしき組合員をつかまえ説得し、軟派を25名に増やし、翌日3日午後6時に小石川音羽町護国寺に集まることとした。これを知った組合員は、護国寺付近で警戒体勢を張った。軟派2名が電車から降りる際に組合員に見つかり逃走しようとしたが、怒った組合員に捕まり暴行を受けた。大塚署はこの事件で栄進社組合員と応援者東部合同南厳ら4名を検挙した。勢いづいた会社は一層組合切り崩しをはかってきた。
(解雇手当の増額)
3月11日、会社は「解雇手当を増額する」と回答をしてきた。更なる争議団員を動揺させる狙いであることは明らかであった。争議団約50名は会社役員宅前に集合し面会を申し込んだ。
(役員宅抗議と大量検挙)
3月15日、栄進社争議団と応援部隊約70名が会社役員宅前で抗議行動をした。関東鉄工組合旗3本を先頭に労働歌を高唱した労働者に正私服警官隊が突っ込み、その場で15名が逮捕された。その後も争議団本部で応援者17名、栄進社組合員36名が続々逮捕された。小石川大塚署は騒擾罪違反で50名を検事局に送致した。送致された者の中には、栄進社組合員の他に応援部隊の関東鉄工組合、東部合同労働組合、時計工組合等の組合員もいた。こうして栄進社争議団の幹部ほとんどと組合員の半数が獄に繋がれてしまった。
(敗北)
3月24日、警察の大量検挙で半数を失い残された組合員の中で動揺がおきるのは当然であった。ついに「被解雇者は解雇手当をもらい退職する。残った組合員はストは打ち切り、職場復帰する」が組合員の多数を占めた。栄進社争議団は「出勤希望者の一覧表約55名分」を会社に提出した。この日応援部隊は応援を打ち切る事とした。
3月25日、被解雇者47名が三々五々工場事務所にでかけ、解雇手当を受け取った。会社は、出勤希望者の一覧表の中から約20名のみの出勤を認めた。
こうして栄進社争議は労働者側の完全な敗北で終わった。交渉拒否、全員解雇と残酷な官憲の大量検挙により力づくでつぶされたのだ。切実な要求を掲げて立ち上がって、逆に弾圧されつぶされていった150名はどんなに悔しかったことだろう。