上・豊田織機争議団演説会ポスター(1926.10.25)
下、同ビラ「決死的奮闘中の兄弟を救え!! 豊田織機の注文品仕事はすな!!」1929.9.24
豊田織機大阪工場争議 1926年の労働争議(読書メモ)
参照 「協調会史料」
前年1925年11月の豊田織機争議(大阪市港区泉尾)は、460名の労働者が一体となったサボタージュ闘争とストライキで18日間を闘い抜き、協定を勝ち取り終了した。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/50a07266b0cd547cf2e9d7e32f1d0106
しかし、その後豊田織機は一向に退職手当制定などの協定の実行をしようとしてこなかった。総同盟大阪金属労働組合泉尾支部に属している豊田織機の395名労働者は、1926年(大正15年)9月11日、嘆願書を提出したが、会社は何らの回答を示してこなかった為、14日から工場に出勤はするが全員がサボタージュ闘争からストライキに突入した。この日大会を開催し嘆願書と同じものを以下の要求書として会社に提出した。
要求書
一、退職手当制定
二、8時間労働制の実施と時間外労働には割増賃金の支給
三、薄給者に昇給
四、作業奨励歩合の支給
五、年二回の定期昇給
六、労働組合の承認
七、外注する時の事前相談
八、正月初出、決算並に臨時休業は全額日給支給
九、今回の件で絶対犠牲者をださない
以上
総同盟の大矢省三が責任者となり、豊田織機500名の従業員と家族を合わせた約2千人は、一人の裏切者も一人の検束者もださずに闘った。
会社は、「退職手当案はすでに出来ていて、近日発表することにしていたが、ストライキが勃発した以上、この発表は差し控える。また、任意退職者には絶対に退職手当金は支給しないと決めている」「組合は年に二回も争議を勃発したのは死刑宣告をすることと同じだ。今回はこの身を犠牲にしてでもあくまで戦う」と言い、数十名の暴力団員を雇い入れ、生産を中止し、組合員を解雇するなど争議団の切り崩しに奔走した。
12月9日午後6時大阪府警察部長、特高課長、調停課長が会社側と総同盟側に出頭を求め労資は妥結した。
覚書
一、会社は除名者70名に対し、金一封(2万円)を支給する
一、復職職工に対し、金2万円以内の範囲で貸し与える
これらとは別に谷口社長より金一封(壱萬円)が解雇された者に贈与された。
以上