ビラ・「社長の息子を先頭に凶器を携え 多数の暴漢 争議本部を襲撃す」日本楽器争議団(1926.5)
浜松 日本楽器争議(その2) 労働争議と暴力団 1926年の労働争議(読書メモ)
参照
「女工と労働争議」鈴木裕子
「企業の塀を越えて 港合同の地域闘争」港合同田中機械支部大和田幸治
「日本労働年鑑第8集/1927年版」 大原社研編
「協調会史料・日本楽器株式会社労働争議顛末」
「日本労働組合物語昭和」大河内一男・松尾洋
「日本労働評議会の研究」伊藤晃
「日本民衆の歴史 弾圧の嵐の中で」藤原彰編 三省堂
(労働争議と暴力団)
戦前の富士瓦斯紡績、別子銅山、共同印刷など多くの労働争議において会社に雇われた暴力団による労働組合・ストライキへの狼藉が目立つ。1920年(大正9年)の八幡製鉄所争議、21年の大阪電灯会社争議、神戸川崎・三菱造船所でも、27年の野田醤油争議でも襲撃された。1930年の東洋モスリン争議や葛飾四ツ木の「大和ゴム争議」でも暴力団は跋扈した。東洋モスリンでは終日押しかけてくる右翼暴力団の数知れない暴力や恫喝に対し、女工たちは頭髪を強く引っ張られて連れていかれようとするのを体をはって柱にしがみついて抵抗し、闘い、ついに亀戸の町民も暴力団への憤激と争議団への同情を生み、ついに暴力団は争議から手を引かざるをえなくなった。
戦後も多くの労働争議で会社が暴力団を使った暴力事件が頻発している。私は、かつて1977年に大阪の全港湾関西地方本部の組合事務所を初めて訪れた時、壁に遺影写真が掲げてあり、どなたですかと尋ねると「労働争議で暴力団に殺された先輩組合員の方の写真です」と教えられ、深くうなった覚えがある。1960年、国会で社会党の議員赤松勇さんが当時の会社の暴力団を使った労働組合攻撃について「メトロ交通争議」、「主婦と生活社争議」、「毎日新聞社争議」と名指しで糾弾している。
また、
・1962年6月20日、「全自交三光労組」の丸山委員長が右翼暴力団によって暗殺された事件。三光労組は65年の全面ストライキでも約200名暴力団と会社職制と500名の機動隊が大挙して襲撃した事件もある。
・1963年、映画「ドレイ工場」で有名な足立区の「全金日本ロール支部争議」への暴力団と警官の襲撃事件。
・1964年、同じ足立区の全自交「司自動車争議」への暴力団員100名、機動隊200名による襲撃事件。
・1964年、「富山相互銀行従業員組合」の二組作りと暴力団介入事件。
・1964年、「三協紙器争議」に114人の暴力団と700人の警察官がストライキ中の組合員を工場から排除した事件。
・1965年、「東京新聞労組ストライキ」に暴力団が介入した事件。
等々労働組合やストライキを会社に雇われた暴力団が襲撃した例は数えきれないほどある。
今は亡き港合同田中機械支部大和田幸治執行委員長の著書『企業の塀を越えて 港合同の地域闘争』の中で、大和田委員長は「(60年代)はテロの時代でした。労働争議に暴力団が介入するので、労働組合は暴力団との闘いは避けて通れない時代だったのです」とおっしゃっている。大和田さん自身襲撃された事件もあった。1965年の田中機械争議のロックアウト・第二組合との闘いの中で、暴力団員から市電乗り場でバットでめった打ちにされたのだ。1967年には、全港湾の大阪支部関光汽船分会の脇田分会長がピケ中に暴力団に刺殺された事件もある。
その後も全金などでは「暴力ガードマン」という形を変えた暴力団の組合攻撃が続いた。
1987年の我が大久保製壜闘争の「覚醒剤謀略事件」も同じだ。ゴロツキやならず者の暴力に頼る資本家階級の本性は戦前も戦後も変わることはないのだ。
戦後で最も有名な労働争議と暴力団事件は1960年の*三池炭坑争議がある。1960年3月29日、短刀、ピストル、こん棒、まき割り、手おのなどを持った230人の暴力団が、ストライキのピケ隊を襲い、最前列にいた三池炭労組合員の久保清さんが殺された。久保さんには妻と5歳の娘と9才の息子が残された。この葬儀の際、炭鉱主婦会の代表は、次の弔辞を叫んだ。「久保さん、あなたの死体を、奥さんは、一晩じゅう、はだで暖めていました、そのはだの暖かさを、あなたはきっと感じ取られたと思います。だが、久保さん、その体温は、奥さんだけの体温ではありません。日本じゅうの働く人々の体温なのです。久保さん、あなたは国民の命を守るべき警察官の前で殺されました。会社と暴力団がぐるになって、あなたを殺したのです。これに対する全国民の怒りの声が、久保さん、あなたに聞こえますか。私たちは、あなたの死を決してむだにはさせません。このあだ討ちは、首切りをやめさせることです。私たちは、かたい決意で戦い抜きます」(第34回衆議院本会議議事録1960年4月5日社会党赤松勇議員発言)。この社会党赤松勇議員の議事録に詳しく述べられているのでぜひ読んで欲しい。
https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=103405254X02019600405#s10
(日本楽器の暴力団)
1926年の日本楽器争議の特徴の一つが、会社が暴力団を使って争議団に白刃をふるう襲撃を繰り返させたことだ。日本楽器天野千代丸社長は自らを「日本主義者」と名乗り、長男辰夫を右翼団体大化会に属させ、辰夫はのちに1932年(昭和7年)に神兵隊事件騒乱を引き起こした首謀者となった。
4月26日ストライキの決行で天野社長はすぐに他所から狩り集めた者らで急遽「日本主義労農同志会」「日の本婦人会」と称して「共産主義撲滅」の旗の下に右翼団体を作り、なんと争議団本部事務所の隣家に労農同志会の事務所を設けさせた。労農同志会は争議団の演説会や集会に押しかけてはヤジを飛ばし争議を妨害した。また労農同志会名のビラで、争議団員に争議団からの裏切りとスト破りを煽ったが、まるで効果はなかった。そこでついに暴力による襲撃をはじめた。5月18日、社長の次男天野武則の指揮のもと十数人の朝鮮人の御用組織「相愛会」を引き連れて、争議団本部事務所を襲撃し、三田村四郎などをピストル・日本刀で襲った。当然争議団は断固反撃した。争議団はただちに「社長の息子天野武則を先頭に、凶器を携えし多数の暴漢、争議団本部を襲撃し、幹部を傷つけ、建物を破壊し去る―しかも警察官は傍観的態度を取れり。」と見出しを付けたビラを市中は勿論全国の労働組合にくばった。在日本朝鮮労働総同盟も即座に支援に駆け付け、争議団を襲った朝鮮人の御用組織「相愛会」と対峙した。在日本朝鮮労働総同盟は、ビラで「相愛会の正体を知れ!」「相愛会は暴力団を組織した暴力常習者で、幾ら不法行為をなしても、官憲側の黙認あるいは公認するがごとき」と市内中に暴露した。たちまち市中では会社を非難する声が高まり、全国からの応援者も激増した。追い詰められた会社は益々その暴力的本性をあらわにした。夜中に労農同志会が争議団員の自宅に押しかけ、労働者を拉致して自動車で工場まで連れ込み監禁した。工場に拉致監禁された労働者が集団で逃亡し、暴力団がそれを追いかける乱闘事件も起きた。争議団は労農同志会の暴力に断固として抵抗する「決死隊」を組織し敢然と実力で闘った。決死隊が反撃した暴力団員襲撃事件も起きた。
(関東大震災時と同じ煽動をする会社)
会社は浜松市民に向かって「関東大震災時の時のように自警団を作って社会主義者をオッパライへ、彼等を葬れ」と、あたかも3年前の朝鮮人虐殺や亀戸事件の労働組合員10名虐殺や大杉栄一家殺害の再現を煽るかのような、信じられないほどの許しがたい呼びかけをするビラを堂々と配布した。しかも警察幹部は会社のこのとんでもない姿勢をとがめるのではなく、逆に会社と歩調を合わせた「思想犯罪事件でっち上げ」大弾圧をしてきたのだ。
(会社・暴力団と手を結んだ官憲による大弾圧・争議団幹部の大量逮捕)
日に日に強固となる争議団の団結と高まる士気と増える応援と市民の同情に危機感を抱いた資本と、今まで暴力団の蛮行を野放しにしていた警察は、5月29日、30日、「思想上の重大事件発覚」なる完全なデッチあげで争議団幹部百数十名を一気に検挙してきた。同時に浜松駅など周辺の各駅に大量の警官隊で阻止線を張り、全国各地から駆け付ける争議団緊急応援部隊の現地入りを拒んだ。
(争議団の頑張り)
大弾圧後、評議会は再び*三田村四郎と南喜一ら二人が最高責任者となる新しい秘密アジトを設立し「争議日報」も発行しつづけた。細胞も3人1組に編成されるなど争議団の混乱を解決し再び統制を急速に回復させた。また評議会を通じて日本楽器争議は全労働者階級の重要な闘いとして位置づけられ支援も全国的に広がった。
(地域ゼネストの計画と不成功)
大弾圧で一時は大混乱に陥った争議団は、浜松市内全域の闘いへと発展させることでこの大弾圧をはねかえそうと努力した。6月6日全市地域ゼネストが計画された。市内の数工場が日本楽器と同じような要求をかかげストライキに突入したが天野社長は横浜分工場の要求をすぐに全面的に受け入れることで闘いの分断をはかり、また警察の弾圧もあり地域ゼネストは成功しなかった。争議は膠着状態となった。警察は必死に三田村四郎と南喜一らの行方を探索したが、秘密アジトを見つけることは出来なかった。「争議日報」は規則正しく発行された。
(会社の脅しとデマ)
会社は毎日のようにありとあらゆる脅しとデマのビラを大量に撒(ばら)まいた。争議団は硫酸を集めているとしきりに流言蜚語や噂を流した。争議団員の家には組合を裏切れとの手紙やハガキが郵送されてきた。
会社ビラ「スト中の賃金は一切支払わない」
(↑クリック)
会社ビラ「復帰のすすめ 一生の岐(わか)れ路」
(↑クリック)
(804人もの大量解雇攻撃)
暴力と脅しとデマにも屈しない争議団の固い団結に、会社は、ついに第一次、二次、三次と次々と大量な解雇通知をだしてきた。
第一次98人解雇通知
第二次26人
第三次680人
総計で804人もの大量解雇攻撃だ。
(スキャッブ・スト破りの一般募集)
会社はスト破り・スキャッブの165人を一般募集し、350余人が応募してきたと、とくとくと宣伝した。
(追い詰められる争議団、ダイナマイト投てき事件等)
6月22日、会社の株主総会開催に向けて争議団は約600人のデモ隊で工場に押しかけたが、警官が介入し男24人、女14人が検束された。逮捕による指導者や幹部の不在もあり争議団員の中にあせりが生まれ、騒乱事件がひんぴんとして起こった。7月6日には工場内材木置き場で放火事件がおき板2、3枚ほどが焼けた。7月16日未明には、会社重役宅に一本のダイナマイトが投てきされた。雷管が外されていたため、大きな爆音だけで被害はなかった。その日の夜には決死隊600人が3隊に分かれて行動を起こした。一隊は会社の役員宅に押しよせた。喚声を挙げ投石をしガラス戸を破壊した。一隊は渡辺市長宅に殺到し邸内に乱入しようとして26人が逮捕された。もう一隊は警察署に向かったが、途中大量な警官部隊に阻止され未遂となった。
7月20日、天野社長は調停をすべて拒否する一方、労農同志会に争議団本部を襲撃させた。地元新聞は連日盛んに争議団の「悪行」「暴行」を報道した。
(8月8日惨敗)
7月29日、警察が秘密アジトをみつけ襲撃し、「争議日報」を印刷中の三田村四郎と南喜一の二人を逮捕した。アジトが壊滅させられた。放火事件やダイナマイト投てき事件などで争議団は市民から孤立した。
日本楽器争議は労働組合に加入してわずか2.3カ月の労働者によるめざましい組織的闘いであったが、アジトの壊滅、評議会幹部の検挙、官憲の弾圧、暴力団の襲撃等々と続く中で争議団の中にもスト破り就労者220人がうまれた。8月8日、ついに100日を越えた大争議も労働者の惨敗で終わった。争議団は解散させられ、職場に復帰した1,000人は無理やり労農同志会に加入させられた。
警察の記録によれば日本楽器争議は、演説会51回、入場者のべ1万7千人、弁士612人(うち中止・注意を命じられた者199人)、宣伝ビラ20万枚。争議中の全検挙者は男581人、女18人で、騒擾罪などで起訴された者は76人もの多数にのぼった。
争議が敗北した直後の浜松市議選では、天野千代丸を全従業員大会が推薦し、最高点で当選したが、それも束の間、翌年には争議の責任を取らされ社長の席からひきづり降ろされた。日本楽器会社は住友財閥が制覇するものとなった。
(*なお三田村四郎は日本楽器争議のあとの1926年12月に共産党に入党したが、1929年に四・一六事件で逮捕。1933年に共産党最高幹部佐野・鍋山が獄中より転向声明を発すると三田村も転向した。転向した三田村は、戦後「三田村労研」をつくり、三池炭鉱争議などで、第一組合つぶし、御用組合二組作り、暴力的ストライキ攻撃を裏で指揮をしたことは有名である。なんということでしょう。)
以上