南海鉄道争議657人高野山ろう城① 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」
「南海電車ストライキの追想」上野孤舟
南海鉄道株式会社労働争議①
会社名 南海鉄道株式会社(日本一の電鉄会社)
場所 大阪市南区難波新地
鉄道 本線(難波と和歌山の間)
高野線(汐見橋高野下間間)
軌道線(阪堺線、上町線、平野線)
車庫7カ所
発電所4カ所
変電所13カ所(全沿線の住宅に電燈電力の供給)
労働者数 3,895人(男3,758人、女137人)
労働組合 南海同志会2,340人(日本交通総聯盟には未加入)
高野山ろう城参加数 657人(鉄道乗務員約350人、駅掌踏切番約120人、食堂部員約40人など)
経過
1924年(大正13年)の交通業の労働争議は官業の大阪市電や民間でも44社に及んだ目覚ましいものがあった。
大阪市電2,400名高野山ろう城闘争
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/ebed20089866a0e48fb1c5d803204c72
阪神電鉄争議
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/40c0f78ccbfae7cf00795cf4c3f70329
南海電車争議
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/d13f92fb67c1c88c442a268e293c966d
(南海電鉄と「御用組合南海同志会」)
1924年は南海電鉄においても各線の労働者が決起し西部交通労働同盟阪堺支部を結成し、敢然とストライキを敢行した。しかし、会社は会社に逆らうものは容赦しないと次々と組合員を馘首し、また御用組合「南海同志会」を作り、ついに全面的に労働者の声を圧殺し組合を完全に潰した。
(1927年闘う労働組合へ)
しかし、この数年の間に、「愛社精神」を掲げる露骨な御用組合である南海同志会をまともな闘う労働組合へ変えようとする青年労働者を中心とする多くの労働者が出現した。同志会相原会長らは、大阪市電自助会元幹部らと、また交通総聯合会書記の島上善五郎や「南海先駆者同盟」(1924年争議で闘った先輩たち)の河本幹次や労農党と接触し連帯を深めた。1927年春季大会では労働条件の大幅待遇改善要求と同志会幹部の労農党加入も決定された。
(会社声明文)
7月5日会社は、以下の趣旨の声明文を発表した。
「南海同志会は愛社的精神を信条として創立された。だから会社も同志会を援助してきた。しかるにこの間の同志会の幹部は同志会の信条と精神を無視し、同志会を挙げて政治的運動に参加し、階級闘争を宣言を敢えて行い、最近の総会では、本来会社と同志会の間で合意されていた不文の了解に反して、会社との抗争を緊急動議で採択した。これら幹部の行為を健全な従業員諸氏が賛同していないと信じる」。会社による全面対決宣言だった。
(呼びつけ)
会社は、同志会の左傾化を嫌悪し、5日午前同志会会長相原豊一と藤林幸一郎書記長らに「声明書」を交付すると共に
(1)同志会は最近階級闘争を根本として運動を進めている。今後会社は経済的援助や仕事上の便宜は取りやめる。
(2)庶務課長の同志会顧問は本日限りでやめる。
(3)ただし、今後充分に反省するのであれば、会社は同志会の過去の行動を追及せず好意をもって迎える。
同志会幹部は会社の態度は組合を圧迫すること甚だしいと大いに憤慨し、反対運動を興すに至った。
(同志会労働者の反発)
7月7日、同志会は緊急幹部会議を持った。 ここには大阪市電自助会元幹部4名と交通総聯合会書記の島上善五郎、南海先駆者同盟の河本幹次も出席した。
一、従業員大会の開催
一、大会は堺大浜公会堂で3日間開催する
一、争議基金として会員各自より金50銭を徴収
一、檄文を撒布し世論を喚起する
一、会員間の結束を固めるため連絡機関を設ける
一、ビラ4種各3千枚を沿線の全従業員に配布
ビラ一号
南海鉄道従業員に訴ふ
△見よ! 陰険なる当局の挑戦振りを!
△!この暴圧何んぞ !
◎欺瞞政策にかかるな
▲労働者の立場をはっきりと知れ
△然して団結の力を信ぜよ
ビラ二号
南海同志会諸兄!
吾等の団結の力を発揮する日は来たれり!
(官憲の厳しい監視網)
同志会に対して、また各駅での官憲と会社の監視が激しくなった。いつ弾圧・検束が始まるか緊迫した状況が続く。同志会幹部は官憲と会社の監視を避けるために、「移動本部」を組織し、毎日、大阪、堺、岸和田と転々と会議の場所を変えた。
(相原会長、藤林書記長をクビ)
7月12日、会社は同志会相原会長と藤林書記長を解雇にしてきた。
7月13日、大浜公会堂において従業員大会開催。この日の官憲の大量動員と警戒ぶりは実に物凄いものであった。大会はその場で代表6人を選出し、代表はそのまま南海本社に向かい、以下の要求を提出した。
要求
一、組合弾圧に関する会社の声明書の撤回の件
一、第5回大会決議の即時実施の件
一、定期昇給即時実施の件
一、不当解雇絶対反対の件
会社は即座に拒絶してきた。代表6名はただちに大会会場に戻り交渉決裂を報告するや、会場総立ちとなり会社への怒号が爆発した。その時、「南海先駆者同盟」の河本幹次はすかさず「高野山へ登れ」のビラを散布した。河本はその場で検束された。
△交渉は破れた
高野山へ行け!!! 登れ!
△山上には同志会の本部がある
△パンは多く同志の空腹を満たす
用意が出来ている
これからの行動は高野山で定めるのだ !!!
南 海 同 志 会
(14日大阪時事新聞)
大会では、代表団が会社から一蹴されたことと相原会長は会場の一同に報告するや、すかさず南海先駆者同盟の河本幹次君は『交渉は破れた高野山へ行け』のビラを会場で散布した。たちまち堺署員が河本君を検束し、議場は大混乱に陥り、労働者は雪崩をうって三々五々高野線の堺東駅に落合い、先発隊として登山することとなった。一方会社側は午後3時頃同志会青年部の闘士10名を馘首した。10名はその場で解雇通知を突っ返した。やむなく会社は速達でそれぞれの自宅に郵送した。『高野山に行け』のビラは各沿線に飛び、午後4時20分和歌山発より続々労働者は下車を始め、急転直下ストライキは全面的に拡大した。
(ストは難波駅から始まった)
しかし、御用団体を煽動し同志会の要求の破壊を企てる会社に労働者の怒りは爆発した。「ストライキだ」「敢行せよ」の声が各所から起こった。ストライキ決行は難波駅から始まった。全員に「高野山へ登れ」のビラが秘かに撒かれた。14日、高野下行電車の車窓から同志会の旗がたなびき、社内と駅ホームからは「同志会万歳」の意気天を突く声が響く。そこに居た南海電鉄労働者は言い知れぬ感激の為涙を浮かべた。
群衆・市民が集まってくる。「南海もとうとうストライキをやりましたね」「岡田専務のことは良く知っておりますが、中々陰険な人ですよ。あれでは一般の従業員に反感を買われるのは無理もありませんよ」などの声が高かった。
阪堺線もストライキに入った。阪堺駅の構内は正私服の警官で厳重に警戒された。
(657人が高野山ろう城)
13日は本線乗務員350人、食堂部員40人、駅掌・踏切番 120人の計510人がストライキを決行した。14日には本線及び高野線、阪堺線の労働者ほとんどがストに参加し、運転手らは次々と電車から下車した。スト参加者は約800人で、その内最終的には657人が高野山へ登った。
(14日大阪時事新聞)
罷業は遂に変電所車輛にも波及し、玉出変電所従業員180名の過半天下茶屋車輛工場同志第八支部はいずれも罷業に参加し、夜に入り同志会員は変装密行して、本線各駅付近に至り信号所その他の現業員に檄を飛ばし盛んに策動を始め、一方同志会の不言実行会員も檄を散布し罷業反対を声明し、午後八時両者は偶然にも天下茶屋駅付近において衝突し、相対して檄の宣伝戦を開始されていた。一方午後7時15分難波駅構内及恵美須構内の南海食堂従業員全部は罷業に参加し、午後9時に至って和歌山浜寺の食堂も閉鎖された。
(14日大阪朝日新聞)
・・・14日午前2時までに到着したもの450人に登り、本線の従業員が主で、まだ続々夜中登山しているものもあり、・・・全部で900名余りになるらしい。普賢院には「南海同志会宿所」の看板をかかげ、同志会の会旗は月光を浴びて立っている。宿所には普賢院350名を始め、常寺院、蓮華院、普門院、遍照光院などが充てられている。高野山に入った罷業団の藤林書記長は語る。「勢やむなくここに及んだ訳です。原因は会社側の高圧的なやり方に憤慨していたに加えて相原会長と自分とを解雇したことが従業員大会の爆発となり、我々は敢然と会社の挑戦に立った次第です。今夜は続々と山麓から登ってくる同志を迎え善後策を協議する筈です」
(14日大阪朝日新聞)
高野線の方でも午後7時から従業員中下車するものが続出してきたので運転回数に故障を生じ、本社から事務員その他運転に多少経験のある者を繰り出して混雑を防いでいる。
(会社と官憲)
会社は運転回数を大幅に減らし、御用団体(「不言実行会」)、駅長ら管理職を総動員し、また「運転手募集」を大々的に始めた。また、青年リーダーを狙い撃ちに新たな10人を解雇してきた。更に40人を解雇すると公言している。
警察は全列車に正服警官2人を乗り込ませ、運転手らをストライキに合流させないぞと運転室を見張っている。電車の中には私服警官も乗車して組合員や応援者のビラ配布などに目を光らせている。警察は高野山に来る途中でも多くの組合員を検束した。駅のホームはサーベルの波で厳重に警戒された。
(高野山の争議団)
高野山では争議団本部が普賢院に置かれた。玄関には「南海同志会宿所」の看板が掲げ、同志会旗が堂々と並べられている。すでに約600人が登った。友誼労組、団体からの檄電、檄文は雪崩のように飛び込んでくる。この檄電らの披露紙はたちまち各宿場の常喜院、漣花院、西門院、普門院に飛ぶ。かつて大正13年(1924年)の争議でもっとも勇敢に戦われた先輩や日本交通労働総聯盟も来てくれている。
参謀本部は山下亭に置かれた。ここでは相原会長がワイシャツ一枚で新聞記者会見をしている。常喜院は青年ばかりで元気がいい。高野線支部の宿所普門院では、歌を唄う人、ヴァイオリンを弾く者と振やかである。同志が次々と登ってきては会社の情報を知らせてくれる。それをすぐに伝令で各宿所に伝える。真夏の7月だが、海抜三千尺の高野山は寒いくらいだ。
本部近くの店には「南海のみなさんに限りビール・サイダー等2割引きいたします」と看板が出ている。
(つづく)
次回は南海鉄道株式会社労働争議②
南海鉄道争議への応援と会社の巻き返しです。