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野田醤油争議(その三) 関東醸造労働組合の創立 1927年の労働争議(読書メモ)

2023年10月06日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

野田醤油争議(その三) 関東醸造労働組合の創立 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会」史料
  『野田血戦記』日本社会問題研究所遍
  『野田大労働争議』松岡駒吉

関東醸造労働組合創立
 1921年12月に野田醤油における日本労働総同盟野田支部の結成と闘いの勝利は、その後行徳町の第16工場労働者も加入したことで野田醤油全労働者の完全なる組織となった。小泉七造と野田支部組合員はつづいて関連会社の労働者への組合加入の呼びかけを積極的に行い、丸三運送店など全部の下請けや関連会社が組織化され組合員は1,500人を突破した。
 野田醤油の組合結成と闘いの勝利は、関東一帯の醤油など同じ醸造労働者に大きな影響を与えた。小泉七造に率いられた野田支部は千葉、埼玉、群馬、神奈川、茨城、栃木、東京等の関東一帯で盛んに同じ醸造の仲間たちの中に入り、醸造労働者の組織化のため奮闘し多くの組合を結成し、1923年6月関東醸造労働組合を創立した。小泉七造は野田支部長となり、1927年には14支部組合員総数3,245人に及んだ。

(関東醸造労働組合各支部名と組合員数)
千葉県  組合員数
野田支部  1547
行徳支部   50
市川支部   616
八幡支部       90
青堀支部     75

埼玉県
川口支部   62
平方支部   45
足立支部(鳩ケ谷)50
埼玉支部   30

群馬県
藤岡支部   185
高崎支部   180
大間々支部    45

神奈川県
京濱支部   170

栃木県
佐野支部     20
計14支部 総数3,245人(1927年段階)

(各支部の熾烈な争議の数々)
 関東醸造労働組合の各支部の誕生は、どの支部でも会社からの組合弾圧とそれに対抗する労働者の決起による壮絶なストライキとなった。小泉七造と野田支部らは先頭に立ってすべての争議とストライキの指導・支援に奮闘した。

(関東醸造労働組合各支部の主なストライキ)
1924年5月 ・泉屋醸造工場(佐野支部)    20人  待遇改善、22日間スト 有利解決 
        ・藤沢醤油工場(藤岡支部)      15人  工場閉鎖、19日間スト 有利解決
      ・日本パイプ八幡工場(市川支部) 60人  不当解雇、30日間スト 有利解決
1924年12月・日本ビール鉱泉株式会社(川口支部)155人 不当解雇、32日間スト  敗北
         ・金井工場(藤岡支部)        29人  不当解雇、73日間スト 妥協
1925年2月  ・山仁醤油機工場(飯岡支部)   60人  組合弾圧、18日間スト 有利解決
           4月  ・同上               45人   同上、11日間スト 妥協   
                ・東武醤油(粕壁支部)            48人  不当解雇、8日間スト 有利解決
                   ・岡崎工場(藤岡支部)         22人  不当解雇、20日間スト 妥協
           ・井筒屋醤油工場(中野支部)      20人  組合弾圧、5日間紛議 有利解決
    6月  ・金線サイダー(京橋支部)    117人  工場解散、7日間スト 有利解決
1926年3月  ・鳥海合名会社(青堀支部)       62人  不当解雇、30日間スト 有利解決
    8月  ・カルピス製造株式会社(渋谷支部)250人  組合弾圧、48日間スト 敗北
    9月  ・市川毛布株式会社(市川支部)    100人  ?      57日間スト 妥協
          10月  ・山サ浜口儀兵衛商店(銚子支部)   250人  組合弾圧、4日間スト 敗北
1927年2月  ・小沢眼鏡縁政策工場(市川支部)   57人  待遇改善、10日間スト妥協

(敗北した支部や地域もあった)
 立ち上がったばかりの各支部は同時に他支部の争議支援に全力を尽くした。栃木県藤岡、東京渋谷、中野、銚子、佐原、茨木県湊等でも醸造労働者が決起し、一時は有力な支部結成を勝ち取ったが、資本家の組合弾圧にあい敗北し消滅した支部も少なくなかった。その中には東京渋谷のカルピス製造株式会社250人労働者の48日間ストの敗北もあった。

(労働学校)
  関東醸造労働組合は野田町の労働学校に積極的に参加した。各支部から選抜された組合員が生徒となり、定員120名、毎週4日間の授業で一ヵ年で修了とした。また毎年の3日から4日間の泊まり込み夏季林間学校や臨時講習会、講演会、各種研究会など組合員の教育学習に努めた。

(野田醤油争議へ応援と闘争主体の移行)
 戦前最長のストライキとなった1927年9月16日から続く野田醤油争議に対して、関東醸造労働組合は12月1日より、組合員は月収の三分の一を毎月争議が解決するまでカンパしようと決議した。また醸造工100余人の藤岡支部だけで千7百88圓74銭ものカンパをした。野田支部に属している白木委員会はストには参加できなかったが、争議開始以来一貫として組合員は月収の半額をカンパし続けた。関東醸造労働組合各支部全体では、2萬4千7百88圓74銭もカンパしている。この支援は日本労働組合運動空前の出来事で、いかに野田醤油争議が同じ醸造労働者の心をうち、我がことの闘いとして受け止めていたかの現れであった。
 又、関東醸造労働組合は、12月4日、「闘争主体の移行」を行った。闘争主体を野田支部から関東醸造労働組合本部へ移行する組織決定をした。関東醸造労働組合は野田醤油争議をそれまでの支援するだけの立場から自らを野田醤油争議の闘争主体と位置づける声明を発表した。
⁂闘争主体の移行について
 これは上に述べたリアルな争議中の労働者、支援する側の労働者にとって大変積極的な面と総同盟本部松岡らが目的とする野田醤油ストライキ早期中止のための「統制権の移行」、つまり「野田支部の統制権はく奪(スト支部独自行使の禁止)」という面もあった。事実、すぐに12月20日からは関東労働同盟会(事実上の総同盟本部)の統制下に移している。「闘争主体の移行」は、総同盟本部松岡の会社や政権関係者とのボス交渉に必要な手続きであった。

以上



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