写真・三池炭坑争議(1960年)
〈労働争議と暴力団〉
参照・1960年4月5日、社会党赤松勇議員第34回衆議院本会議議事録より
・1966年2月3日、1965年新東洋ガラス大阪工場争議国会社会労働委員会議事録より
1927年から28年の野田醤油争議は、会社側に雇われた暴力団の跋扈と暴力の数々には本当に驚きます。
〈労働争議と暴力団〉についてまとめてみました。
私は、若いころ大阪の全港湾関西地方本部の組合事務所を初めて訪れた際、階段の壁に遺影写真が掲げてあり、組合役員の方に、どなたですかと尋ねると「かつての労働争議で暴力団に殺された先輩組合員の方の遺影写真です」と教えられ、深くうなった覚えがあります。
大久保製壜闘争でも職安法20条戦術など絶大な指導と支援をいただいた今は亡き港合同田中機械支部大和田幸治執行委員長の著書『企業の塀を越えて 港合同の地域闘争』の中で、大和田委員長は「(60年代)はテロの時代でした。労働争議に暴力団が介入するので、労働組合は暴力団との闘いは避けて通れない時代だったのです」とおっしゃっています。直接、大和田委員長から委員長自身が襲撃された時の話もお聞きしました。1965年の田中機械争議のロックアウトとの闘いの中で、市電乗り場で暴力団員から襲われてバットでめった打ちにされたそうです。1967年には、全港湾の大阪支部関光汽船分会の脇田分会長がピケ中に暴力団に刺殺された事件もあります。その後も全金などでは「暴力ガードマン」という形を変えた暴力団の組合攻撃が続いています。
1987年の我が大久保製壜闘争の「覚醒剤謀略事件」も同じです。
ゴロツキやならず者の暴力に頼る資本家階級は戦前戦後と時代が変わってもその本性は変わることはありません。しかし、労働者民衆はこのような卑劣な暴力に決して屈せず闘い続けます。
戦前の富士瓦斯紡績、別子銅山、共同印刷など多くの労働争議において会社に雇われた暴力団による労働組合・ストライキへの狼藉が目立ちます。1920年(大正9年)の八幡製鉄所争議、21年の大阪電灯会社争議、神戸川崎・三菱造船所争議、26年の日本楽器争議でも争議団に対し、暴力団が凄まじい攻撃をふるいます。1927年の野田醤油争議では会社側はこの日本楽器争議を習ったともいわれています。1930年の東洋モスリン争議や葛飾四ツ木の「大和ゴム争議」でも暴力団は登場します。東洋モスリンでは終日押しかけてくる暴力団の暴力や恫喝に対し、女工たちは頭髪を強く引っ張られて連れていかれようとするのを体をはって柱にしがみついて抵抗して闘います。その時の女工たちの闘いを見た亀戸の町民の暴力団への憤激と女工たちへの同情を生み、その時は暴力団がその場から手を引かざるをえなくなった場面もあります。
戦後で最も有名な労働争議と暴力団事件の一つに、1960年の三池炭坑争議があります。1960年3月29日、短刀、ピストル、こん棒、まき割り、手おのなどを持った230人の暴力団が、ストライキ中のピケ隊を襲い、最前列にいた三池炭労組合員の久保清さんが殺されます。久保清さんには妻と5歳の娘と9才の息子が残されました。この葬儀の際、炭鉱主婦会の代表は、次の弔辞を叫びます。
「久保さん、あなたの死体を、奥さんは、一晩じゅう、はだで暖めていました、そのはだの暖かさを、あなたはきっと感じ取られたと思います。だが、久保さん、その体温は、奥さんだけの体温ではありません。日本じゅうの働く人々の体温なのです。久保さん、あなたは国民の命を守るべき警察官の前で殺されました。会社と暴力団がぐるになって、あなたを殺したのです。これに対する全国民の怒りの声が、久保さん、あなたに聞こえますか。私たちは、あなたの死を決してむだにはさせません。このあだ討ちは、首切りをやめさせることです。私たちは、かたい決意で戦い抜きます」(1960年4月5日社会党赤松勇議員第34回衆議院本会議議事録より)。
この時赤松勇議員は三池争議以外にも当時の会社が暴力団を使った労働組合攻撃についてメトロ交通争議、主婦と生活社争議、毎日新聞社争議など名指しで糾弾しています。
他にも戦後、労働組合やストライキに対し会社に雇われた暴力団が襲撃した例は数えきれないほどあります。主な事件だけでも、
・1962年、「全自交三光労組」の丸山委員長が右翼暴力団によって暗殺された事件。三光労組は65年の全面ストライキでも約200名の暴力団と会社職制と機動隊500名に襲撃されている。
・1963年、映画「ドレイ工場」で有名な足立区の全金日本ロール支部争議への暴力団と警官の襲撃事件。
・1964年、同じ足立区の全自交司自動車争議への暴力団員100名、機動隊200名による襲撃事件。
・1964年、富山相互銀行従業員組合の二組作りと暴力団介入事件。
・1964年、三協紙器争議に114人の暴力団と警察官700人がストライキ中の組合員を工場から排除した事件。
等々です。
1965年の東洋ガラスの大争議における暴力団の介入は大変な社会問題となり、国会社会労働委員会でも大きくとりあげられました。
1965年新東洋ガラス大阪工場争議
国会社会労働委員会議事録より(1966年2月3日)
http://www.kamamat.org/gikai/kotukai/kamagasaki/kama1/s41.02.03sansya1.htm
新東洋硝子株式会社は当時従業員2千名で、川崎工場と大阪工場があり、川崎工場はガラス壜だけをつくり、大阪工場はコップなどの食器のガラス製品を製造していました。新東洋硝子労働組合は、昭和35年以降、総評全日本硝子製壜労働組合(全硝労)に所属します。全硝労はストライキも敢然と闘う、労働者の立場にしっかり立つ労働組合でした。
労働組合つぶしを狙う会社は、1965年(昭和40年)11月17日、130名の大量指名即日解雇を発表。12月15日には250名で二組を結成します。新東洋硝子労働組合は指名解雇に対して裁判所に地位保全仮処分申請を行うと共に職場では全面ストライキを決行します。
12月13日午後11時30分ごろ、暴力団員やならず者約300名と黄色のヤッケ、白ヘルメットを着用した下請の従業員などがカシの棒、鉄棒、スコップ、モンキースパナ、バール、ナイフ等の凶器を手に手に持ってトラック4台で大阪工場三号門に乗りつけ、大阪工場の管理職が直接指揮をとり、門前でピケをしていた無防備、無抵抗の組合員100数十名にその凶器を振り回して襲いかかり、組合員の頭上、顔面、手足など、ところかまわず振り回し、暴行の限りを尽くします。あまつさえ、構内の労組事務所にまで乱入して破壊行為をほしいままにし、全組合員を工場外に放り出し、工場企画課長が携帯スピーカーでロックアウトを宣言します。
この時暴力団やならず者らの暴力行為で負傷した組合員、オルグの数は、重傷を含め、74名にのぼり、入院者4名のほとんどが頭蓋骨骨折、足、腕、腰等の骨折によるものでした。のちに暴力団員等約40数名が逮捕され、一人は全国指名手配をされます。この時被疑者として取り調べを受けた者は合計144名もいます。その上、12月27日には、前日12月26日に大阪地方労働委員会から労使休戦勧告が出されていたにもかかわらず、福島警察署は会社側と一体となり、約8百名の機動隊を動員して、大阪工場三号門にピケッティング中の組合員に暴力を働いてゴボウ抜きにし、第二組合員190名を強行就労させるという暴挙を行ないました。暴力団と警察の目的は同じだったのです。
私たちは、同業ガラス壜製造労働者の先輩たちの苦闘と資本の悪逆非道の歴史を決して忘れてはなりません。これからも警戒しなければなりません。だからこそ、私たちには、三池闘争の久保清さん殺害を語り継ぐ責任があります。労働運動に関わる人々だけでなく、すべての民衆がことあるごとに思いだすべきです。資本家や政府は私たちに忘れさせようとしますが、そうはいきません。永遠に忘れてはならないのです。
以上
(写真・三池炭坑争議 1960年4月5日久保清さん葬儀)
*資料(久保清さん刺殺事件第一審判決抜粋)
http://omuta-miike.world.coocan.jp/history/1960-0728.html