先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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『吉村光治君の生涯』 南 巌 (読書メモー「亀戸事件の記録」)

2022年04月03日 07時00分00秒 | 1923年関東大震災・朝鮮人虐殺・亀戸事件など

『吉村光治君の生涯』 南 巌  (読書メモー「亀戸事件の記録」)
参照「亀戸事件の記録」(亀戸事件建碑実行委員会発行)

吉村光治君の生涯   南 巌
 
吉村光治は、一九〇〇年(明治三十三年)四月一日金沢市上有松町の貧農南七三郎の二男として生れた。 貧乏人の子沢山の例にもれず、十一人兄弟姉妹中の六番目であったのです。
 吉村姓を名乗るようになったのは二才の時となっていますが、それは、父親の実兄藤岡文吉が本家の長男であったが、百姓生活がいやなため弟に家督相続をさせて、自分は士族の藤岡家の婿養子となった。生来働らくことが嫌いなため、三百代言をやっていた。財産を横領する意図で、廃家になる吉村家に光治を養子に入れたのでした。そんな訳ですから戸籍面の手続きだけで、養子縁組先が金沢市大衆免あたりであるくらいは両親はきいていたかと思うが、光治は生家で育ったのです。多分叔父の藤岡は、光治を戸主にしておいて、勝手気儘に土地建物の売却処分をしたものと思われ ます。
 吉村は、小学校五年に進学する頃、たしか十二才で、京都市内の金箔製造の箔打業者の丁稚小僧になっています。そのうち、箔つくりが手打ちから機械打ちに転換するのは、時間の問題だと考えて、十七才のとき、箔打ちを止めて金沢に帰り、宇都宮書店の店員になりました。 
 十九才のとき上京、エボナイト加工の轆轤(ろくろ) 工見習となり、徴兵検査まで年季奉公をします。こうしたジグザグの道を通って、しだいに近代的労働者に成長していきます。しかし轆轤(ろくろ)工の職場はほとんど零細工場でした。 
 吉村が年季奉公を終え、熟練工としての第一歩が、吾嬬町請地の水野工場でした。この工場は水野某と兄の南喜一との共同経営であり、水野が技術面を、南が外交面を分担していたが、間もなく南が独立して吾嬬町大畑に工場を出した。このとき吉村は水野工場に留る考えであったが、吉村が残るとなると南の方にいく者がいなくなる有様だったので、兄を見殺しには出来ないので、自分の気持を殺して兄に従いました。吉村が辞めたので工場の主なメンバーが吉村に従って南工場に集り、水野工場はまもなく閉鎖することになりました。
 私は吉村光治のすぐ下の弟ですが、当時吉村と私と父親との三人で、吾嬬町請地に住んでいた関係で、吉村が南工場にいくことに反対した。それは、兄喜一は資本もなく一切を借金でやり、弟にその穴埋めをさせようとの魂胆であることが読めていたからでした。私はその頃、吾嬬町小村井にあった帝国輸業の旋盤工であり、同工場に就職してきた川合義虎君と一緒に社会主義グループの暁民会に加わり、社会主義研究に情熱を傾け、「共産党宣言」「空想から科学へ」「経済学批判」などの学習をしていて、資本の集中過程で零細企業家が労働者に転落していく法則を学んでいたので、人情のしがらみで自分を拘束している吉村の生活態度に批判的だったのです。
 ところが、ある日吉村から、社会主義を研究したいから、お前の加入している団体に加わりた い、といい出した。そして私のもっていた本を熱心に読みだした。当時は未だ書籍が少なく、研究しようとの欲求を充すことができないのが現実でありました。
 そうしたことから、吉村も暁民会の研究会に加ってきた。こうして川合、北島、相馬、丹野らとの接触が日に深まり、議論する機会も多くなっていきました。一九二二 (大正11) 年十月に渡辺政之輔、藤沼栄四郎、加藤高寿、川合義虎、相馬一郎、北島吉蔵、丹野セツ、川崎甚一らと私とが南葛労働協会の創立発起人となって、亀戸で旗上げをした。すると吉村は俺もやるといって、最初に加入させたのが佐藤欣治君であった。佐藤君は吾嬬町にいた伯母を頼って岩手県江刺から上京し、大畑の南の工場に就職した、東北弁丸出しの青年で、働きながら勉強しようとしていた。
 吉村はゴム関係の化学労働者を組織し、私が帝国輪業の労働者を組織して、翌年三月に南葛労働会(労働協会では頼りないという声が強まり創立二ヶ月後に改名した) 吾嬬支部を結成して吉村光治が支部長に選ばれました。
 労農ロシヤの救援運動、過激運動取締法案反対運動、野田醤油の大争議応援などに積極的に取り組んだ外、押上の十間川辺りの夜店で、社会主義思想の宣伝と南葛労働会の会員拡大の手掛りをつくるため、週一回、ブックデーという、パンフレット売りを始めました。
 吉村光治は十二才から八年間丁稚奉公した経験から、人生の機微にふれ穏かに説得することを身につけており、敵をつくらないという社交的な説得型タイプであった。だから世話役を好んで引受けて親身になって動きまわっていた。人情にもろい点が目立ったが、約束したことは必ずやり抜く、たのもしさがありました。
 彼ををコンミュニストに仕立て上げたのは、兄南喜一のワンマン的工場経営であり、弟を下僕のように酷使したことであろうと思います。
 九月一日の大地震で無数の家屋が倒壊して火災となり、東京下町一帯が焼野原になったとき、翌朝、現場を見てこないのでは対策は立たない、というので焼土を踏んで、被服廠跡あたりまで見て廻り、焼け残った吾嬬町は、焼出された、着のみ着のままの避難者に水と食糧を与え、安全地帯への道案内をすべきだ、と町内有志に決起を呼びかけた。そして三ヶ月ほど前の東武鉄道曳舟線の事故のとき、東武鉄道に踏切番をおけと要求してできた災害防止調査会を母体に、緊急役員会を開いて、九月三日から当分の間、柳島で水呑場を出す。 吾嬬町役場に緊急炊き出しを交渉し、実施させることを決議し、実施方法もきめている。そして吉村が行動隊長となって指揮をとっています。
 九月三日は朝の十時から柳島に七、八名で出かけて、大バケツを三つ据えて飲料水を供したが、 明日はもっと規模を大きくしなければ間に合わない、というので、その手配をし、午後一時頃他の役員一人と町役場に炊き出しを要求して実施を約束させています。
 町役場で炊き出しを受け入れさせ、意気揚々と引揚げてくると、町役場の筋向いの香取神社の境内に軍隊の屯所ができており、二、三〇人の朝鮮人が収容されていた。それに眼をやるとその中にいた佐藤欣治君が吉村を呼んだ。そして朝鮮人と間違えられて連れてこられた。釈放するよう頼んでくれというので屯所に行き、知合いの者で日本人であるからと釈放を申入れたが、 兵卒は、日本人なら日本人だとの証明を持ってこい、証明をもってくれば分隊長が釈放する筈だと、追い返されてしまった。そこで町役場に引返して事情を話し、佐藤欣治君が日本人であると証明してくれと頼んだが、役場では日本人だとの証明はだしようがないという。押問答をしたが、どうしても書いてくれなかった。この経過を帰って私に話したので、私は南幕労働会の本部に報告して、貰い下げ方法を相談しようと本部にかけつけたが、理事が誰もいないので、私独りで亀戸警察に行き高等係の蜂須賀に会い、佐藤君の釈放に協力してほしいと頼んだが、混雑中で今すぐといっても駄目だ、後で何とかしよう、と動いてくれそうもないので引揚げた。後で考えると他に方法があった筈だ、と自分の未熟さをつくづく後悔しています。
 九月三日は昼頃から吾嬬町でも、朝鮮人襲撃の流言が拡がり、武器を持って血ばしった目をした群集が横行し人心が動揺し始めたので、災害事故防止調査会の緊急役員会を召集し、朝鮮人襲撃などある筈がない、頼るところのない者が飢えに堪えかねて、食物をあさりにくることは考えられるので、飢えた者には食物を分けてやれば感謝される筈だ、われわれの周辺では誰れ一人も武器を持たさないように説得しようと、小村井の吾嬬支部近くの宮地(橋本?) 鉄工所前の空地に調査会の本部を設け、役員は本部に詰めて町内を統制することにした。この申合せの成功は、吉村が精力的に町内の良識あるものを結集した成果であり、その中心になったのは、町内役員の神田藤太郎、安田為次郎(足尾銅山の争議で軍隊の弾圧に抵抗して検挙されたことがある) 田村某(東京モスリンの労働組合員) と南葛労働会吾嬬支部の委員たちでありました。
 夜は要所要所に夜警に立ち、吉村が先頭になって本部詰めの者が巡回していた。 
 夜十時すぎ頃、本部詰めの役員田村氏が私の夜警場所に飛んできて、今少し前に兄さんが警察に拘引された。 一緒に巡回していたが、どうしようもなかったと、報らせてきました、また前記安田氏も、吉村君の拘引されるのを近くで見ていたが、殺気立っており、ただごとではないと感じた。後の警備は俺達が責任をもつから、君は危ぶないから逃げた方がよい、と勧めてくれたが、私は奴等に追究される弱味はないから逃げる気はないと、応じなかった。そして結局、当分昼間は外出せず、夜は夜警に出るということで了解されたわけです。
 二十四才で、理由もなく検挙され、その深夜に亀戸署の裏庭に引出されて殺されたものと考えられます。 しかし九名の人々と同様、労働者階級の勝利を確信しつつ、胸を張って斃(たお)れたであろうと信じています。
 亀戸の事件から四十七年になりますが、犠牲者の流した血は、数百万の働らく人民の中に受けつがれ、その体内に躍動しております。
 なお、この度全国の闘う人々の協力によって、亀戸四丁目の、名も赤門寺に犠牲者の碑が建立されたことを一日も早く遺族たちに報らせ、遺族がみんな一堂に集り、語らい合う機会をつくりたいと思っております。



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