悲痛なる失業者の叫び(1922年ごろ)
頻発した化学工場の争議 1922年主な労働争議⑦ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)
第一次世界大戦を通じて発達した化学工業。大戦終結で著しい打撃を被っ企業は事業縮小・賃金値下げ・大量解雇を起こし、全国で失業への不安が高まった1922年、化学工場でも多くの労働争議が頻発した。
1922年の化学工場争議
1月
八千代ゴム株式会社(大阪)
東洋マッチ株式会社(神戸)
東洋製紙会社(大阪西成)
2月
日本染料株式会社(大阪西区)
3月
西大寺製紙株式会社(岡山)
リバーブラザー石鹸西宮工場(兵庫)
5月
古河製紙会社(大阪)
瀬戸陶器株式会社(愛知)
摂津製油株式会社(大阪)
塩田工場他マッチ6工場(神戸)
6月
赤松マッチ工場(神戸)
マッチ10工場(明石市)
ダンロップゴム極東株式会社(神戸)
大阪化学肥料会社(横浜子安)
髯三ゴム工場(神戸)
堀田ラバー工作所(神戸)
中央マッチ工場(明石)
7月
堺化学工芸研究所(堺市)
宮城製紙株式会社(仙台市)
松村陶器会社(名古屋)
東神ゴム会社(神戸)
由良ゴム株式会社(愛媛県)
9月
奥田防水布株式会社(兵庫)
日本エナメル会社(大阪)
日沙ゴム工場(兵庫)
三田土ゴム製造合名会社(東京本所)
12月
日本陶料株式会社(京都)
この内、以下の2つの争議を紹介します。
1、日本染料の争議
大阪市の日本染料株式会社は労働者511名でその内約250名が大阪聯合会の組合員であった。失業の脅威の下、1922年1月25日労働者は「解雇手当の増額、賃金の改善、年2回の定期昇給の決行、一週間以内の公病傷欠勤者にも皆勤賞を支給、購買組合の設置」などの要求書を会社に提出した。しかし、会社は28日、この要求全部を拒絶したばかりか、「会社が気に入らなければ出ていけ」と極めて強硬な態度で出てきた。しかし、労働者側はそれでもストライキには入らず、サボタージュ状態のまま、なお交渉で解決するために努力していた。2月1日午後5時に、会社は突然「6日午前7時まで休業する」と掲示し、ただちに工場を閉鎖した。労働者側は2月5日伝法町永楽座において会社糾弾演説会を開催し、大阪聯合会よりも幹部が応援に駆け付けた。2月6日の休業明けには全労働者は出勤し、この日は一切のサボタージュは行わなかった。にもかかわらず、会社は同日午前11時に「さらに13日まで休業する」と発表したため、労働者は一斉に全員喚声をあげて工場を退出した。
10日夜会社は、労働者のリーダー42名の解雇通知を郵送してきた。同時に一般労働者には下記の通知を出した。
「休業中2週間分の賃金は払わない。ただし、温順の意を奉する者に限って幾分を支給する。13日に出勤して怠業(サボタージュ)の挙にでた時は即時に工場を閉鎖し、なお解雇もする場合もある」
これをみた労働者は大いに憤慨し、
一、13日には全員出勤してサボタージュ闘争に突入する
一、解雇された労働者は当日うちそろって社長に面会を求め、解雇理由を厳しく問い詰める
一、休業中の賃金と解雇手当を要求する
一、解雇された者に一般職工はそれぞれ自分の日給の3日分をカンパする
を決定した。
2月12日演説会、13日午前7時、400余名の労働者は全員出勤し、事務所の周囲を労働歌を高唱しながらデモを行い気勢をあげた。社長は全員を解雇するかもしれないと脅してきた。14日よりストライキ突入。会社はスト破りした軟派労働者61名を、仕事が終わっても帰宅させず寄宿舎で寝食させる一方で、管理職をスト労働者宅に訪問させ職場に戻るよう説得を繰り返した。18日、上京した組合代表は、鈴木文治会長と共に農商務省に陳情した。
2月20日、ストライキ争議団は、組合幹部50名だけとなり、あとはすべて会社に切り崩され、会社は完全に操業を開始するに至った。
2、勝利した日本エナメル争議
大阪合同労働組合今福支部の日本エナメル会社の争議は、会社が同組合の労働者を会社から放逐する目的で組合の幹部2名の辞職を強要したことに端を発した。しかも、辞職を強制された2人は、勤続7年、10年と長年会社のために働いてきた労働者だ。それなのに会社が支給した解雇手当はわずか30日分に過ぎなかった。全労働者は会社のやり方に憤慨し、また解雇手当の額にも大いに不満を持ち、9月13日労働者代表を選出し、会社に要求を提出した。しかし、会社は断然拒絶すると回答してきた。労働者は怒り、その日午後3時より皆が結束して一斉に工場を引き揚げ、ストライキに突入した。
続々と地域の労働組合の労働者が応援にきた。ストライキ労働者の結束はますます強固となった。官憲がひどい弾圧をはじめた。大阪方面の道路をすべて封鎖して見張り、大阪から応援に来た多くの労組員を有無を言わさず、すべて検束したのだ。しかし、この官憲の弾圧は、逆にかえって争議団の意気をあげ、その後一週間誰一人の裏切者も出さずにストライキを貫徹し続けた。
会社は音をあげた。19日、ついに「解雇手当の増額と勤続慰労金の支給」を回答してきた。労働者は勝利したのだ。