日本労働総同盟伸銅工組合ビラ(1921年)
大阪住友伸銅所争議 1922年主要な労働争議⑥ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)
大阪住友伸銅所争議
1922年6月、大阪住友伸銅所は、日頃の温情主義の標榜仮面をたやすく脱ぎ棄て、不況を理由にして労働者への退職勧奨をまますます強めてきた。住友資本がその本性をむき出しにしてきたのだ。退職希望者はその数600名に達した。しかし、これだけでは予定の数に達しないため、会社からのあらたな大量解雇攻撃が予想された。7月23日、日本労働総同盟伸銅工組合は、「減員の範囲」「解雇の有無」「解雇の場合の手当の増額」の要求を可決し会社に提出したが、会社は回答を拒絶してきた。24日朝7時工場に出勤してきた労働者は会社のこの回答を聞いて、ただちにストライキに突入し工場内に集合、代表者を選び会社に交渉を要求した。会社はこの形勢をみて、即座に「来る28日まで5日間工場を閉鎖する」の掲示をだした。労働者は工場構内で、長蛇の陣を作って革命歌を高唱しつつ構内を練り歩き、そのまま工場正門から退場しようとしたところ、そこに伸銅工組合本部の幹部らが会旗を押し立てて登場したので、労働者は再び工場内に引き返し再び気勢をあげ食堂で報告演説会を開いた。労働者は午後3時50分会旗を先頭に退場し、組合本部の北区西野田吉野東之町因順寺にくり込み、「休業中は全員毎日午前十時に本部に集合」を申し合わせて解散した。
その夜、大阪聯合会は大阪聯合会本部で「罷業統制権執行委員会」を開き、賀川、西尾理事ら委員30名が集合し3時間にわたる協議の結果、以下を決議した。「大阪聯合会は、無条件にて全市にわたる各産業別組合全部をあげて伸銅工組合と一致的態度を取り組合のつぶれるまで戦う」
25日午後、会社は500名を解雇してきた。
26日午後1時、中之島中央公会堂で伸銅工組合大会が開催され、賀川、西尾理事らの応援演説と以下の決議を可決した。
「一、我らは住友伸銅所の陰険なる挑戦的態度に対し、成敗を度外視し、労働運動のため戦わん事を期す右決議す 6月26日 本工場職工大会」
さらにあらたな要求として以下を可決した。
「一、団体交渉権を認める事、すなわち日本労働総同盟伸銅工組合を交渉団体として認める事
一、賃金制度の改善
一、今回の解雇者には今回の支給額とは別に日給300日分を支給する事」
また、休業明け29日の工場再開には、「断じて入場しない」と決議した。その後約2千の労働者は会旗を先頭に土佐堀川に沿うて西に向かい市庁舎南手に差し掛かった時、同所裏門に隠れていた警官隊が襲い掛かり労働者と衝突し、検束者もでた。
会社は28日までの間に1258名の退職希望者と解雇された労働者に退職手当の交付を行い、一方全労働者に対しては、「29日に賃金と期末賞与を支給します。またこの日は仕事はしませんが、おいでになった方には全員日給を支払います」との勧誘状を2千名労働者に郵送してきた。露骨な買収攻撃だ。労働者の足並みが崩れ出した。組合は、「会社はさらに600名の解雇を予定している。我らは結束して闘おう」との宣伝ビラ2万枚を労働者・市民に撒き、中央公会堂で第二回職工大会を開催し、約2500名の組合員が結集した。
29日、工場再開当日、組合幹部の毎夜の個別家庭訪問の説得にもかかわらず、労働者の約半数が工場に入場してしまった。翌日は公休日で7月1日には争議団の計画は全く裏切られ四分の三の出勤率となり、工場は動き出し作業は再開した。ことここに至っては万事窮す。午後7時300名の出席による緊急執行委員会を開き、満場涙を呑んで以下の宣言を承認した。
「宣言
我らは武運つたなく敗れたり、永久に恨を呑んでここに兵をおさめる。理想に達するはなお遠し、今多くの同志と袖を分かつは情において忍びざるも再会の時には真に我らが望む社会の実現するの時ぞ、我らは永久にこれを忘れずにここに惨敗を宣言す」