写真・“真島パン”の地主真島桂次郎の似顔絵焼き印
4か月に及んだ児童700名の同盟休校闘争、よってたかっての無産農民学校建立運動の成功 木崎村小作争議 1926年の労働争議(読書メモ)
参照「日本労働年鑑第8集/1927年版」大原社研編
「木崎村暴動事件」大宅壮一(文芸春秋1955年8月号)
木崎村小作争議
1922年4月9日、杉山元次郎牧師と賀川豊彦らによる日本農民組合(日農)創立大会が神戸基督教青年会館で開催され、「農は国の基であり、農民は国の宝である」と宣言され、小作料軽減、耕作権確立等を目標とする農民運動はたちまち燎原の火のように全土に拡がっていった。
悪虐非道の大地主真島桂次郎
1926年当時、新潟県北蒲原郡木崎村(現新潟市北区)全農家の863戸の9割近くが小作農民であり、その小作農民は、全収量の半分以上が小作料で、その上、こぼれ米防止の二重俵や継米(1俵当たり2~3升の付加米)等も地主から摂られ、その生活は困窮を極めた。「生きる屍のような生活さえつづけて行くことができなくて、娘を売った金で小作料を支払わなければならなかったのである」(大宅壮一)。
木崎村では、1922(大正11)年11月に小作料減免を要求する笠柳横井小作組合が102人によって結成された。小作農民は小作料不納同盟を結び断固闘う姿勢を固めた。ほとんどの地主が減免要求に応じたが、悪虐非道の大地主真島桂次郎らは農民の切なる要求をことごとく拒絶し、1923(大正12)年5月、小作農民12名を相手取って小作料支払(未納分)の訴訟をおこしてきた。こうして歴史的な木崎村小作大争議が開始された。
日農関東同盟木崎村連合会創立
笠柳横井小作組合は、1923年7月の臨時総会で日農関東同盟参加を決め、また各集落に小作人組合が次々と結成された。11月に長行寺で日農木崎村連合会創立総会が開催され、村内7支部から組合員とその家族ら440名が参加した。組合側は、区長選挙や農会代議員選挙で勝利をおさめ村の行政にその力を拡げた。
残雪を血に染めた割腹事件
しかし、真島桂次郎ら大地主9名は頑強に農民の要求を拒絶し続け、1924(大正13)年3月、「小作料未納」を理由とする仮処分を裁判所に申請し、すぐに裁判所はただの一度の口頭弁論すら開かないまま小作人60余名の耕地に「立入禁止」の仮処分の許可を与え執行してきた。仮処分執行日に木崎支部長の長男が割腹自殺(未遂)した。組合は抗議の自殺と世論に訴えた。川瀬新蔵(日農木崎村連合会会長)が上京して中央省庁に仮処分執行の不当性を訴えるとともに、記者会見で、小作農民の窮状と真島地主の悪虐非道を暴露し訴えた。その結果裁判所の和解勧告により4月13日に和解が成立し、地主側は仮処分を解除した。しかしすぐに真島ら6地主は、「耕作禁止」、「土地返還」、「小作料請求」の本訴訟をおこしてきた。こうして木崎村小作農民の闘いは、長期戦へと突入した。
日農新潟県連合会創立総会
争議が持久戦に入った1924(大正13)年村議会選挙で、組合は定員16名中7名もの農民議員を誕生させるという画期的勝利を実現させた。また、8月の日農夏季大学(葛塚町龍雲寺)と演説会(新発田町朝日座)には、賀川豊彦も駆けつけ、9月からは、北蒲原郡新発田町に日農関東同盟出張所が設けられ、三宅正一が主事として常駐した。11月には新発田町朝日座において、日農新潟県連合会創立総会が開催された。創立総会には、日農関東同盟会長の鈴木文治(総同盟)らも駆けつけ、聴衆1,500余名、場外1,000余名という大盛況であった。
鳥屋浦事件
1926(大正15)年4月に新潟地方裁判所新発田支部は、小作農民側の全面的敗北の判決を下した。組合側は直ちに控訴と仮執行停止命令手続きに入ったが、東京控訴院での手続きという“時間差”を利用した地主側が、いち早く仮執行手続きに着手した。5月4日、内鳥見集落で数百名の警官に護衛された執達史により、約2町5反歩の田に、「立ち入り禁止」の仮執行の制札が立てられた。翌5日、地主真島らが所有する小作地への大規模な仮執行が強行されるなか、鳥屋浦事件が起きた。仮執行強行を阻止しようと早朝より小作農民ら数百人が集結したが、警官に守られた執達史が鳥屋集落で仮執行を告げる。「土地を取り上げられたら生活ができない。明日まで待ってくれ」との小作農民の必死の嘆願を一切聞こうとせず、仮執行は強行された。田の泥土を投げて抵抗する丸腰の小作農民に、数百名の警官が襲いかかり、殴打され、首を絞めつけられ取り押さえられた小作農民は、次々と畦道の立木に縛りつけられた。約30分にわたる乱闘が終わった時、周囲の立木には、血をしたたらせた縛り付けられた小作農民たちがぐったりと首をうなだれていた。この日、30余名の検束された組合員のうち29名が「騒擾罪及公務執行妨害罪」で起訴・収監された。こうして、小作人68戸、30余町歩の土地が仮執行処分となり、450名もの小作農民とその家族は、先祖代々守ってきた土地を取り上げられ、生活の基盤を失ったのだ。
農民の闘い
地主による残酷非情な土地取り上げと容赦ない官憲弾圧に、小作農民の怒りの渦が沸きあがった。日農新潟県連に争議団本部が設けられ、被告人や家族への支援、争議資金募集、真相報告演説会開催、婦人部結成と行商隊編成、声明書全国発送などが次々と決められた。13日の村内演説会に約5千人、18日の被告人家族慰安大講演会では約3千人の聴衆に、夫を獄につながれた婦人たちが涙の訴えをした。また18日からは、木崎小学校の小作人児童が抗議の同盟休校に突入した。20日には婦人部行商隊が地主真島桂次郎の似顔絵を焼き印した“真島パン”(上写真)や組合マッチ等を販売しながらビラを撒き、これを新潟県全下の農民・民衆が声援を送った。
5月30日、婦人部代表6名が池田徳三郎(日農須戸支部長)らとともに上京した。東京での真相報告演説会で「わたしたちは…ただ、人間として、人として認めて欲しいだけなのです…」と絶句した池田徳三郎の演説は、多くの聴衆の魂を振るわせ、また土地を取り上げられ夫を獄につながれた婦人たちの涙の訴えに、新聞各紙は「女宗吾」(義民・佐倉惣五郎)と書き立てた。
700名児童の同盟休校闘争と農民小学校
児童らの同盟休校闘争は木崎小学校の児童700名が参加した。組合では、同盟休校した児童を教育するため、村内6ヵ所で、民家や寺・集会所を借り、リンゴ箱を机がわりとした農民小学校を開校した。農民小学校の教師には、教師経験のある原素行、野口伝兵衛、黒田松雄(賀川豊彦の弟子)らと全国の学生が無報酬での農民小学校教師を志願して続々と木崎村に駆けつけた。農民小学校教師団は「画一主義を排して、個性を尊重する教育方針」のもと、小作農民の子どもたちと真剣に向き合った。
一方当局は農民小学校に私服刑事を各教室に張り付けさせ、農民小学校の授業内容を監視し圧迫した。
農民・文化人による、よってたかっての無産農民学校建立運動の成功
木崎村の小作農民たちの闘いに対する支援の輪は文化人に広がり、5月25日に、大宅壮一ら文化人が農民小学校臨時教師として課外授業を行った。その夜、文化人、争議団本部、農民小学校教師らが協議し、新校舎を建設し無産農民学校を開校する方針を決定した。無産農民学校は、小学校だけでなく日曜学校、高等農民学校、図書館、研究所等も併設した無産農民のための教育・運動の一大拠点とする構想だった。その学校長には賀川豊彦が就任することとし、安部磯雄、大山郁夫、杉山元治郎など社会主義運動のリーダーらも教師として就任することを快く承諾した。
大宅たちは建設資金集めに奔走した。大宅たち文化人は農民小説集等を発行してその印税を寄付することとした。『農民小説集』には、芥川龍之介、菊池寛、秋田雨雀、中条百合子ら計20名の作家が寄稿し、無産農民学校設立への賛意を表した(断ったのは正宗白鳥ただ1人だった。正宗の言い分は「私は岡山県の地主で、今も小作人にはひどい目にあっているから、こういう運動を応援するわけに行かない。私にいわせれば、ふだんブルジョア呼ばわりされている菊池君とか資本家である新潮社がこれを応援する気がしれない」というのである(大宅壮一)。賀川豊彦は、『賀川全集』を担保に新潮社から3千円を借り出し、ただちに学校建立の木材を購入した。
6月11日、都内で無産農民学校建設後援会が発足し、賀川が後援会の趣旨説明を行い、現地から上京した三宅正一は、建設計画の概要を説明し参会者の協力を要請した。15日には木崎村の長行寺で無産農民学校協会発会式が開催され、村内外から集まった約3千人が会場周辺は埋め尽くした。大工、冨樫棟梁と武藤棟梁の指揮のもと、組合員130余人を動員しての新校舎建設が始まった。
あらたに児童3千余名の決起
無産農民学校建立運動が盛り上がっている最中に、当該である大地主真島桂次郎がなんと北蒲原郡教育会長に就任したのだ。これを知った北蒲原郡各郷の全小作農民が死ぬほど怒った。7月19日、あらたに北蒲原郡の小作人児童3千余名が同盟休校に突入した。
無産農民学校上棟式
7月25日の無産農民学校上棟式では、校舎正門前に農民組合旗など無数の赤旗が翻った。全国の農民・労働組合50有余からの祝辞・祝電披露等の後、武藤棟梁の手始めで撒餅が行われ数斗の餅俵はたちまちのうちに空になり、校舎を取り巻いた数千の農民の雄たけびは広大な新潟の大地を震撼させた。
大弾圧・久平橋事件
3千児童の同盟休校闘争と無産農民学校建立運動の拡大と成功は当局を心底動揺させた。文部省・県・北蒲原郡教育会と警察が一体となって、あらゆる手段で、なんとしても無産農民学校建設を阻止すべく様々な組合切り崩し攻撃が強行された。
上棟式参加者のうち約1千人が同夜松ヶ崎村で開催される講演会に向かって地主真島邸近くの久平橋を渡ろうとした時、数百の武装警官隊が襲いかかった。女性や子供たちもが逃げまどった。この久平橋事件で、三宅正一、滝沢要平、今井一郎、黒田松雄ら25名が一網打尽に検挙され、組合側は有力幹部のほとんどを失うという大打撃を負った。権力側の計画的な組合運動潰しであることは明白であった。
1万2千人大結集の無産農民学校の開校
9月1日の小作農民待望の無産農民学校の落成式と開校式には、木崎村小作争議で最大の約1万2千人の近隣各村の小作農民が大結集して、この間の弾圧に決して負けないという決意と団結を示した。
9月10日、同盟休校の中止
同盟休校と無産農民学校絶対阻止をめざす当局の攻勢はますます強まった。9月8日県知事は県庁に組合幹部を呼びつけ、「学校を即刻閉鎖しなければ、組合幹部を治安維持法で逮捕する」と最後通告を突きつけ脅した。
組合側はやむなく、
①10日までに同盟休校を解除し児童は復校する
②農民学校校舎は、高等農民学校として存続させる
③争議の調停を県知事が行う
との内容で、県当局と妥結することになった。9月10日、建立したての校舎で、児童、教師、父母らが参加した無産農民学校閉校式が行われた。ここに4ヵ月にわたる同盟休校闘争が終結した。農民学校は1928年まで新潟高等農民学校として続いた。建物は1936年に解体されている。
争議の終結(法廷調停)
1930(昭和5)年7月、東京控訴院において調停が行われたが、和解内容は小作農民側の敗北(未納小作料の支払い)で、この歴史的大争議は終結した。 しかし敗北したとはいえ、全国の小作農民の階級意識を飛躍的に覚醒させたこの木崎村争議は、その後の地域全域や県内の小作料実質2割から3割減免実現の大きな流れを作った。
戦後の農地解放はこれら先輩農民運動の力と犠牲で実現した!
戦後GHQによる農地改革により寄生地主制は消滅した。後年、地元放送局が農地改革40周年番組で、「農地解放はアメリカのおかげ」と話してほしいと木崎村の古老に依頼したところ、古老は、「農地解放は農民運動の力で実現したと思っているから、米軍のおかげなどとテレビで話すことはできない」ときっぱりと断ったという。戦前の数限りない小作争議の力と犠牲、木崎村小作争議をはじめ全国の小作争議の偉大な歴史的・社会的意義を謙虚に学びたい。