先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

「安全デー」闘争で全面勝利! 東京市電労働者 1924年主要な労働争議⑮ (読書メモ)

2022年05月18日 09時14分42秒 | 1924年の労働運動

写真上・「安全デー」闘争激励に三ノ輪支部争議団を訪問した堺利彦ら(1924年)
写真下・ソ連レプセ一行が東京市電自治会本部を訪問

「安全デー」闘争で全面勝利!  東京市電労働者
1924年主要な労働争議⑮ (読書メモー)
参照
「東京交通労働組合史」東交史編集委員会発行
「昭和史の証言(島上善五郎のたどった軌跡)」島上善五郎著

日本交通労働組合壊滅後再び決起 
 日本交通労働組合の敗北、再び決起した東京市電労働者。
 1920年(大正9年)の約1千6百名のろう城闘争・大ストライキへの当局・官憲の残酷な弾圧は解雇328名、投獄83名、起訴34名という多大な犠牲にのぼり、結成後わずか8ヵ月にして日本交通労働組合は壊滅させられた。しかし1921年には、本所出張所の島上勝次郎ら青年たちは「相扶会」(クロポトキンの思想からとった呼び名)を100名で結成し、1923年12月には20年の市電争議の復職者を中心にした「人間会」が生まれた。1924年(大正13年)2月、「相扶会」が協力して「復興同志会」を結成し、全従業員に呼びかけ、電車・自動車の待遇改善等を求める労働者の間に次第に入会者が増えていった。同じ頃、三ノ輪出張所に「自治会」が生まれ、それ以来職場浴場の石鹸設置要求など各出張所に「自治会」、「同志会」なる職場組織が相次いで生まれた。これらの組織の代表が組合結成に向けて協議をはじめた。東京市電労働者は再び三度立ち上がったのだ。

(東京市電従業員自治会創立大会)
 ついに、1924年(大正13年)5月1日、「東京市電従業員自治会」の創立大会が青山教習所で挙行された。
綱領
 一、団結の力と自治的訓練により生活の向上を期す 
 二、互助友愛の実を挙げ、社会の木鐸たらんことを期す
 三、交通労働者の社会的使命の完成を期す

東京市電従業員自治会宣言
 かの世界大戦は人類社会に一新紀元をわかつて一大飛躍を与えた。我々は迷妄なる個人主義に戦慄して民衆共存へと覚醒した。 見よ、国際的に促進されつつある労働組合を。来るべき清新なる社会の文化はこの労働組合を基礎として、初めて完成せられるべきものである。しかしてその社会文化の最も重要なる関係に立つものは、我々交通労働者であらねばならぬ。事実上有史以来の人類文化は交通の発達に依って決定されて来たのである。将来この交通文化の使命を完全に果し得た時、地方的感情も民族的闘争も、ひいては経済的闘争も全然除去されて、世界の平和と人類の幸福を永遠に確立する事が出来るのである。
 
 この重大なる使命を有する我々交通労働者が、なんらの組織も持たないと云う事は世界的一大屈辱である。しかのみならず人類社会に対して忠実なる所以の道にあらず。ここにおいてか「自治会」を興し、その社会的権威を確立し、交通文化の使命を貫徹し、世界的に人類社会の幸福を実現せん事を期す。ここに広く天下に宣言す。

 役員には、執行委員に本所出張所の島上善五郎(島上勝次郎は義父)が入った。この創立大会には、当局の和田駿電車課長も出席して祝辞を述べ、当初は労資協調的色彩の強い組合として発足したのであった。しかし、7月に東京市が市営自動車廃止を可決したことで、市電労働者の中で広範囲な反対運動が一気に勃発した。間もなく、あくまでも市営自動車存続を要求する「市電工場連合会」が、芝浦工場1千名、三田工場120名、その他自動車関係職場200名等で結成された。この組織が刺激となり、続いて車庫聯盟、労働自治軌工会、工友会などの労働者組織が相次いで生まれ、市電労働者の大部分はやがて、そのいずれかに加入するにいたった。

(稀代の組合弾圧魔新局長大道良太が就任)
 1924年7月、稀代の組合弾圧魔である新局長大道良太が就任した。大道は就任前から組合を叩き潰すと豪語していたので、市電自治会は断固として大道局長と対峙した。大道は就任早々自治会に加盟していた監督や事務員を一斉に脱退させるなどきわめて挑戦的であった。市電自治会は、大道局長糾弾の演説会を大々的に開催し、9月、大道局長に対して、つぎの7か条の待遇改善要求を敢然と叩きつけ、真っ向から闘いの幕を切った。
待遇改善要求書
一、時間給日給制に改めること
二、給料を2割増額すること
三、公休日にも賃金を支給すること
四、退職給与金を増すること
五、服装を改善すること
六、賞与金を増額すること
七、祝祭日勤務手当及び夏期手当を支給すること

(「安全デー」という名の順法運転闘争)
 この要求と歩調をあわせ、工場連合会もまた給料、退職金 、賞与その他の要求を提出した。電気局は、労働者の怒りをごまかそうと10月18日、 共済組合評議員会をひらき、これを糊塗しようとした。 これを察知した組合側は島上善五郎らの青年闘士約100名が会議室に乱入し、机、椅子等を破壊し、これを阻止しようとした日比谷署刑事を袋叩きにした。
 11月1日の回答日には、全従業員は大挙して当局へ押しかけたが、その数およそ1,500名にも達した。回答はきわめてあいまいな抽象的なものであった。これを不満として、市電自治会は工場連合会と共同で11月2日から 「安全デー」と名乗る全線での順法闘争に入った。交通取締規則の「時速五マイル以上の速度をだすべからず」を楯に、運転速度を極度にゆるめるのろのろ運転により、線路上には電車が次々と繋がった。新聞は、自転車よりおそい電車と書いた。安全デー2日目、電車の運転能率は、平日に比して約2割方低下した。

(12時間制を9時間制へ)
 電気局は出勤停止命令をだしたり、出張所構内における集合を禁じたりしたが、この巧妙な組合の新戦術にたいしては手も足もでず、ついに怠業3日目の4日にいたり、電気局は組合要求の大部分を承認した。すなわち、給料の1割増、退職給与金の5割増、賞与1割増、服装の改善等をみとめたのである。また工場連合会の要求についても、給料の2回払い、工場の改善設備の充実、積弊の刷新、12時間労働制を9時間とすることなど、ほとんどこれを承認した。翌5日から運転状態は全く復旧することになつた。 
 
 この「安全デー」は闘争戦術としても、きわめて画期的・効果的であったが、この闘争と組合の勝利によって、組合員の団結は一層強化され、同時にこの闘争を通じて、発足当初の労資協調的色彩は、まったく払拭され、ここに市電自治会は本来の労働組合として発展することになった。

(日本交通労働総連盟結成)
 1924年(大正13年)11月27日、大阪市中之島中央公会堂において、大阪市電自治会、大阪交通労働組合(参加者100名、内、先の高野山ろう城争議で解雇された20名も出席した)、京都市電向上会、南海同志会、京阪同友交通労働組合、阪神従業員組合らが、「大阪交通労働組合」を発足、続いて東京、大阪、神戸、阪神、京阪代表のもとに、交通労働者の全国団結組織である「日本交通労働総連盟」が結成された。

日本交通労働総連盟宣言
 人類社会の進化に一大飛躍を与えねばならぬ時代が来た。この重大な使命を負えるは全世界の労働組合である。来たるべき社会文化の完成はこの礎として組織されねばならぬ。 して人に到達すべきものである。この最高至純の聖戦には如何なる暴慮も、如何なる迫害も突破して進まざるを得ない。これ即ら有史以来の人類が我々に遺されたる唯一の使命である。我々は労働組合個々の運動に依つて幾多試練と経験を得た。今や凡ての労働組合は同一産業の下に大同団結をなさねばならぬことの当然の帰結なるを痛感した。
 ここに於いて我々文化の先駆者たる交通労働者は、関東、関西、相諮り日本交通労働総連盟を成立して人類社会に一大革新を与え、世界的平和と人類の幸福を永遠に確立せんとするものである。その行動は常に現実に立脚する実際的運動である。その階級闘争も結局相互扶助への道程であり、経済運動と政治運動とを問わず実際的立場より有効に活用することは、労働階級発達のために辞せない。
  我々の根本精神は、現代社会の一大飛躍に依る人類愛に赤熱したる人間最高の完成であり、常に鮮明なる階級意識の下に団結し、絶えず自主、自治の精神を基調として無産階級解放のために敢然として躍進する。ここに本連盟成立に際し、広く天下に宣言す。

 この日本交通労働総連盟の結成以来、東京市電自治会は、交通産業の全国的横断組織の指導的役割を担って、その運動を推進することとなった。翌年1925年(大正14年)7月9日、車庫連盟と工場連合会が東京市電自治会と合同し、東京市電のオール組織が完成した。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。