■全ては同一性を持つ
ルルは同一性を持つ
ルルはルル自身である
ルル=ルル自身
■全ては差異性を持つ
ルルは差異性を持つ
ルルはルル自身以外の何らかとは異なる
ルル自身≠ルル自身以外
■全ては対立性を持つ
ルルは対立性を持つ
ルルは生きているか、生きていないか、2つのいずれかであり、3つ以上はない
↓
生きているでもなければ、生きていないでもないような、ルルは存在しない
↓
排除されるルル?
↓
「この対立に無関係なルルは存在しない」が含まれ
「この対立関係に、ルルは関係する」
↓
【ルルは生と死の2つの対立性を持ち、ルルはその2つ相互に関係する】
■♦️全ては矛盾性を持つ
ルルは矛盾性を持つ
だから、全ては無い
だから全ては統一する
※ルルは生きている(肯定判断)
※ルルは生きていない(否定判断)
↓
※ルルは生きているか、生きていないかのいずれかである(排中律)
↓
(矛盾律)
【ルルは生きていると同時に生きていない】
↓
「『生きている』は無い」から、「『生きていない』も無い」から、ルル自身も無い
「生きている、生きていない」は、観念的概念だった
生きているは無い(肯定の否定)
生きていないは無い(否定の否定)によって全ては無いに統一された
否定的統一
♦️それでも全ては観念的概念を持つ。という矛盾性
それでも私は「ルルはルル自身である」という観念的概念がある。
♦️観念的概念とは、ルル自身の【必然的在りかた】の反映である。
ルルの必然的在り方は、ルルの観念的概念へ反映させたがる
★ルル自身とルル以外との差異からの反映
★ルル自身の成立において欠くことのできない内在的差異の在り方からの反映
♦️差異とは
「ルルはルル自身」と感じるのは、表向きはルル自身とルル自身以外との差異があるからだが、実はその差異という観念的概念は、ルルの内在的差異の反映である。
「ルルはルル自身であるのに
ルルは母であり、ルルは父母の子供であり、ルルは女であり、ルルは生きているであり、ルルは、、であり、ルルは、、であり、、、、、」
↓
内在的差異は、対立関係にある
母⇔子
女⇔男
生きている⇔生きていない
↓
♦️全てには不可分離的対立が内在する。不可分離的とは他者がある限り自らもあるということ。
自らがある限り他者がある。
その自らと他者とは
生死、善悪、男女、上下、、
の関係であり、そこからルルは排除されている?
だが、そこにルルは無関係ではない
♦️全てにはすでに【必然的在り方】があり、その在り方に対立が内在する。
その必然的在り方の表現道具として観念的概念が備わり、ルルの観点(比較)として必然的在り方は、感情、受けとめ方、考え方などで顕れる
♦️必然的在り方とは何か?それはルル自身か?
1つのもの=同一性
「ルルはルル自身である」
↓
1つのものの根源=矛盾性=対立
「ルルはルル自身であり、ルル自身ではない」
↓
再び同一性に至る
「やはり、ルルはルル自身よ!それしか無い。
対立による矛盾は、同一性に含まれる。同一性があるから対立による矛盾もある。
同一性は、『ルルはルルである』以上何ものも語らないという無の展開したもの!
ルルの根源は空虚な無であり、無が展開して、ルルの必然的在り方が整いました。
必然的在り方は、生きている⇔生きていない、善⇔悪、苦⇔楽、などの対立によって満たされる。
対立して本質を争うという事態が、空虚なルルを満たしていく。
対立させているのは、ルルの観念的概念であり、対立者ではない。。
ルルの根源は無。その無の展開は必然。だから、ルルという必然的在り方が整い、必然的在り方は、無の空虚を満たす観念的概念を内在した。
ルルは内在された観念的観念、、?
それとも無の展開した必然的在り方?
このように再び対立による矛盾を持ち、それによって空虚を満たす
無は無が根源であるのに、その無の空虚を満たしたがる矛盾。無いものから有るものへの循環という矛盾。
♦️本質
※本質1
「ルルはルル自身である」という同一性の本質は、「ルルは『A』であるか、『Aではない』かのいずれかである」という2つの対立矛盾関係が必要
※本質2
「ルルはルル自身」同一性は、2つの対立矛盾関係から排除された第三者である
※本質3
根拠続けるものは、根拠づけられるものを一方的に根拠づける、のみならず、同時に根拠づけられるものによって、逆に根拠づけられる
ルルをルルと根拠づけるのは、2つの対立矛盾
2つの対立矛盾は、第三者であるルルを、ルルと根拠づける妙薬
同時に根拠づけられたルルによって、逆に、「生きている、生きていないは、対立矛盾である」と根拠づけられている
対立を可能にしているのはルル
ルルをルルにしているのは対立