健康な人でも心配ごとで悶々とするが、その気になればいろいろな気晴らしが、その気になれば毎日でもできる。あなた方は気づいてないが、それによってあなた方の心の悩みはどれほど軽減されているだろう。
長期にわたり部屋に寝たきりで、単調さを強いられてきた人の神経組織は、単調さによって損なわれる。変化を持てない病人の場合、心の悩みはますますつのり、部屋の壁にまで心配ごとがかかげられているよう。ベッドの周囲には心配ごとの亡霊がさまようのを感じ、変化という救いの手をさしのべない限りつきまとう。心配の想念から逃れることは不可能となっている。
たいへん苦痛なのであるが、なぜそうなってしまうのか自分にもわからない。そこで病人はその理由を考えて自問自答する。そんな自分をふがいなく思う。しかしどうあがいてみても、すべては無駄なのである。
実際のところは、まともに理由を詮索するよりは、書物とか会話に夢中できて、腹から笑った方がはるかに簡単にこの辛い苦痛から逃れられる。笑うだけの体力もない場合もあろう。そのとき必要なものは、自然が与えてくれる、あの感銘、、
餓えた眼が変化を渇望するのは、餓えた胃袋が食物を求めるように必死。。その渇望は餓えた人を動かして、どんなことをしてでも満足を手に入れようとさせる。
それは必死としか形容できない。
自然のまっただ中に立って感じる魂の歓喜といえども、部屋に閉じ込められた病人たちが、ドングリの実を高さ15センチばかりの樹木に育てあげる、その喜びにはとても及ばないであろう。おそらく日本全国隅々にまで一生かけて旅行してもそれほどの喜びは得られないであろう。
夜ごと病人は、夜明けが待ち遠しいと言う。これはまさに陽光への希求であり、眼に映るさまざまなものが、病みつかれた心を和らげてくれたその記憶からくるものに他ならない。
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