るるの日記

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仏教史研究・身延離山

2021-07-11 12:24:10 | 日記
■日蓮大聖人は1282年、六老僧を定められた。六人の連名の順序は入門順に記されていて、上下の差別はない
むしろ上を押さえて、下をあげるという真意を伺うことができる。すなわち日興上人が第二祖として付属を受けたからである

蓮華阿闍梨・日持
伊予公・日頂
佐土公・日向
白蓮阿闍梨・日興
大国阿闍梨・日郎
弁阿闍梨・日昭

日蓮大聖人は、日興上人へ戒壇建立の遺命、身延山久遠寺の別当、一宗の総貫主の付属をなさり
1282年10月13日に入滅された

■日興上人は、遺命どおりに身延へ入山され、一宗の中心に立たれたが、五老僧たちは身延へ登山もしなかったのである

1285年頃、日向が一人墓参りのために身延へ登山した。日興上人は喜んで、特に学頭職にしてねぎらわれた。
しかし日蓮大聖人の仏法を、あまり知らなかった日向は、鎌倉の五老僧たちの軟風を、地頭・波木井実長(はぎりさねなが)にふきこをだのである

そのため実長は

神社に参詣
謗法の福士の塔の供養
九品念仏の道場に供養
釈迦仏像の造立

など四箇の謗法を重ね、日興上人のいましめも聞き入れようとしなかった

■ここにおいて「地頭不法な時には、日蓮の魂はこの山に住まず」の御遺言のままに、日興上人は謗法の山と化した身延を離山される決意を固めた

1289年身延を離山された日興上人は、上野にいる南条時光の請いに応じて、南条家の持仏堂に入られた
1290年10月、ここより半里を隔てた大石が原に大坊が完成した。ここに【弘安二年十月十二日御建立の本門戒壇の大御本尊】をはじめ、一切の霊宝が安置された

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