南条時光
時光の父、南条兵衛七郎は駿河国富士郡上野郷の地頭であったが、1265年3月、幼い9人の子供を残して亡くなった
日蓮大聖人は入信まもない7歳の南条時光のために、鎌倉から富士へ来て墓参された。時光16歳の時、初めて日蓮大聖人のもとへ御供養の品々をささげた。また深い御慈愛のこもったお手紙をいただいたのであった
1275年正月、日蓮大聖人のご名代として、南条殿の墓参にみえた日興上人と初めて会われた。16歳の時光と30歳の日興上人との間に法談がかわされ、時光の信仰はいっそう堅いものになった。そして富士周辺に大折伏を展開した。多くの信者をみて、駿河方面の信者の中心者と、日蓮大聖人より認められていた
時光らの折伏が進むにつれ、三障四魔は競い起こり、1279年9月には富士下方の熱原で、信者20人が捕らえられるという大法難が起こった
時光は信者の中心として、迫害を受けた僧・俗を護ったが、南条家にも幕府の圧力がかかり、不当に重い税金をかけられ、苦しい生活を送った。しかもその苦しい中から日蓮大聖人への御供養は怠らず、純真に信心を貫いた
若くして信心に励み、護法のために偉大な功績を立てた南条時光。後には左衛門尉に任官され、十数人の子供たちに囲まれた幸せな家庭を築いて、功徳の姿を示している
時光にあてられた日蓮大聖人の御書は、現在三十数通ある
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