「何かに導かれた」
という自覚は法楽を味わう
「自覚」というのは導きを与えられたその瞬間は無く、後になって実感するものだ
自意識で出来事の意味等を解釈し、導きを与えられたと意味づけし、
自覚することで、法楽、満足を味わう
楽もいきすぎると優越、傲慢に変化する
導きを与えられた瞬間は
その瞬間の行動そのもので
ゾーン、フロー状態
体感を信じよう
体感を信じて行動すれば
もしかしたら「自覚なき一念の気づき(導き)の連続で動くのみ」になるかもしれない、、
それこそ絶対他力
自意識による喜怒哀楽が少しも発生しない生き方には、神仏の存在する意味は無くなってしまう
人は自意識による喜怒哀楽がわきおこり、そこから苦しみが発生するからこそ、神仏を信じることで救われる不思議はある
苦しみの根本の自意識を絶てば喜怒哀楽は沸かないから、そこから発生するすべては無くなり、神仏の救いは必要は無い
自意識そのものが
他力神仏そのもになっていて、
自覚無き一念の連続行動は、神仏の他力そのものになる
だが、、自覚無いというのは
つまらないような気がする
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