とらわれることのない境地は
どんな悪魔があらわれても
すべての事象は空であると
観察できる
あらゆる事象は思慮分別を越え
本来は清浄である
どんな悪魔であっても
そして
あらゆる存在を構成している要素は
量はなく
形はなく
限定はなく
その自性なく
虚空の大海のようなもの
名前や言葉は仮の表札
仏や悪魔という言葉も仮の表札
だから
形にとらわれず
名前にとらわれず
言葉にとらわれず
目に映るもの、耳に聴こえるもの、鼻に香るもの、肌に触れるもの、
その時々の心の対象にとらわれず
住する所無き心を生ずべし
このような理想を具現するには
自我排斥
偉大な仏に接すると
仏の影響によって
自他の意識は消える
自他意識は対立観念を呼び起こす
そして、、
仏さえ捨てよ
最大に役立ったものを離すまいとすれば、そのものの本来の機能すら忘れ余計な行為をくりかえす。このような執着心を人間は常に持つ
今、現に必要なものを知ることは
不必要なときは、さらりと捨てさることも知る
人を救った法は
さらりとその場で捨てなければ
法の本義を見失う
否定の論理の背景には
否定した結果、真実の自由と快適な境地の出現を体験によって示そうとしている
過去心不可得
現在心不可得
未来心不可得
不可得とはとらわれない世界
過去の心はとらえようがなく
現在の心はとらえようがなく
未来心心はとらえようがない
心は
とらえようがない
認識することができないのに
とらわれるのは、、、
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