藪の中(酒井はな・津村礼次郎)

2012-03-13 22:29:20 | 日記
 久しぶりに舞台を観た。「藪の中」である。原作は芥川龍之介、さらにその原作は『今昔物語集』である。この舞台は、芥川龍之介の作品に手を加える形で作られている。

 新婚早々の旅人が、男に襲われ、妻は夫の目の前で辱められ、夫は死ぬ。検非違使の取り調べによると、男は自分が殺したと言い、女は自分が殺して後を追うつもりだったと言い、死んだ夫は巫女の口を借りて、自分は自殺したのだという。
 前半では、音楽のない舞台で男が主に現場の再現をする。後半では、検非違使による取り調べが行われるわけだが、興味深いのは、妻(酒井はな)、と検非違使(津村礼次郎)のリアルな語りである。これは、独白というのではなく、時間を現代に巻進めて現代の人物の日常的体験を語るのである。その意味するところは、体験的リアリティというものが如何にあやふやで、実際には体験しなかったはずの事件がいつの間にか体験したかのようなリアリティを持つようになるというものである。

 この二人の語りによって、この作品のテーマが明確化される。

 いろいろ考えさせられる舞台、刺激的な舞台であった。
 舞台を見る機会がドット無くなってしまった今、演劇やダンスの状況がどのようなものなのか、全く知らない。そこで、頭に浮かんだのが、30年以上前の田中泯の野外での舞踊(舞踏)だ。まったくと言っていいほど動かない田中泯、そこにただ在る、その存在そのものが舞踊であった。もちろん音楽などなかった。ところが今思えば、風の音、人の通るざわめき、騒音とおぼしき音が、音楽であったのだ。
 今回の舞台には騒音さえもない。わずかに観客の押し殺した咳くらいである。そこでの舞踊家の勝負は、大変厳しいものがある。そこまでの存在感を問うのは酷であろう。

 後半では、語りによって、ダンスの世界にはまっていた観客が一気に日常世界(現実)に引き戻されるという、つまり作品のテーマに相応しい仕掛け(構成)であった。

 その意味では、非常に構成のしっかりした整った舞台なのだが、やや複雑に過ぎると言えなくもない。当日配られたパンフレットに書かれたストーリーと言葉(いくつものキーワード)がこの舞台の水先案内人である。舞台はパンフレットも含めて一体化されているのである。

 緻密に計算された刺激的な舞台だったというのは、以上のことから分かってもらえるだろう。
 でも敢えて言えば、もうこれは趣味の問題と言われても仕方ないが、この複雑さをもっと象徴的に仕上げて欲しかったと思うのである。私は、舞踊(家)そのものに、それだけの力があると思うのだ。(2012/3/8 セルリアンタワー能楽堂)
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瞑想と震災

2012-03-11 23:19:23 | 日記
 校了の作業が重なったこともあって、この週末に友人から誘われていた東北大震災の瓦礫の片付けのお手伝いに行けなかった。今日の午前中ようやく校了し、午後、沼袋のブラーマクマリスに、瞑想に行った。午後2時46分、参加者全員で瞑想(黙祷)をした。

 昨年まで、震災1年を機に、弊社BNPの『地球人』で震災の特集をしようと思っていて、先生方からもいろいろ提案をしていただいていたのだが、どうしてもその気になれず、時ばかりが経っていった。震災の本は書店に溢れている。それらの本を見て、感動もするし、大変意義のあることだと思う。ただどうしても、自分で震災の特集をする踏ん切りがつかないのだ。

 そんなことよりも、瓦礫の片付けに行けなかったことのほうを恥じる。

 震災を契機にして、人は意識が変わる(変わった)、生き方が変わる(変わった)、という。では、どのように。時は刻々と流れていく。はや1年だ。あっという間に、2年、3年が経つだろう。震災前と同じように、多少の節電はしているとはいえ、車に乗り、寒いと言っては暖房をつけ、食べ、生活をしている。

 そうした中で私にできることとは、より強く、神を感じ、魂を感じることであり、それを持続することである。そのために瞑想がある。絆とは、魂と魂の触れあいのことだと思う。
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