昨日(4日)と一昨日(3日)の両日、アレクサンダー・テクニーク教師で大学の演劇学部教師でもあるサラ・バーカーさん(女優)による役者のためのワークショップがあったので参加した。
もちろん私は役者ではないので、弊社からサラさんの書籍『アレクサンダー・テクニーク入門』(北山耕平訳)とDVD『サラ・バーカーのアレクサンダー・テクニーク入門』(鈴木重子ナレーション)を出している縁があってのことだ。
このワークショップで強く印象に残ったことがいくつかある。
与えられた課題、あるいは持ち寄ったシーンを参加者が二人一組で演じるワークがあるのだが、まず1回目を演じ、それをサラさんがアレクサンダー・テクニークによってチェック、修正した後、2度目を演じる。演者が語った体験も入れてここに書くと、明らかに、1回目と2回目では、演者の意識、声、視野、演技、空間に質的変化が生じるのだ。
つまり骨盤の上に脊柱が乗り、脊柱が上に伸びていき、脊柱の上に首が乗り、首が自由になるのをイメージし、そして胸が左右に開く、また、足裏と大地との密着などが指導される(勿論実際はもっと奥深いものであることは言うまでもない)。ここで面白いのは、欧米の身体運動は上下の動きが中心であり、アレクサンダー・テクニークもその例外ではないのだが、骨盤と脊柱、足裏と大地の密着という部分を取り出すと、日本の伝統芸能、特に能など(横の動きを中心とした身体運動であるにもかかわらず)との共通点を考えてみたくなることだ。
また意識による空間の広がりをイメージして演技することが指導されるが、これも勿論上記のアレクサンダー・テクニークの身体運動と深く結びついている。演者が自分の空間の広がりを様々にイメージして演じると、身体の表現も変化するのは言うまでもないが、空間の広がりがイメージだけで終わるのではなく、物理的に広がるということだ。私はこの動きが茶道の身体操作と結果的に非常に近いものを感じた。まず、無駄のない動き、それによる具体的、物理的に支配できる空間が広がるのだ。
以上は、根拠のない単なる印象ではあるが、入り口、方法論は違うのだけれど、結果として、アレクサンダー・テクニークの動きと、日本の身体操作に非常に近いものを感じ、興味深い課題だと思った。それぞれの専門家から浅薄な考えだとお叱りを受けるかもしれないけれど。
もちろん私は役者ではないので、弊社からサラさんの書籍『アレクサンダー・テクニーク入門』(北山耕平訳)とDVD『サラ・バーカーのアレクサンダー・テクニーク入門』(鈴木重子ナレーション)を出している縁があってのことだ。
このワークショップで強く印象に残ったことがいくつかある。
与えられた課題、あるいは持ち寄ったシーンを参加者が二人一組で演じるワークがあるのだが、まず1回目を演じ、それをサラさんがアレクサンダー・テクニークによってチェック、修正した後、2度目を演じる。演者が語った体験も入れてここに書くと、明らかに、1回目と2回目では、演者の意識、声、視野、演技、空間に質的変化が生じるのだ。
つまり骨盤の上に脊柱が乗り、脊柱が上に伸びていき、脊柱の上に首が乗り、首が自由になるのをイメージし、そして胸が左右に開く、また、足裏と大地との密着などが指導される(勿論実際はもっと奥深いものであることは言うまでもない)。ここで面白いのは、欧米の身体運動は上下の動きが中心であり、アレクサンダー・テクニークもその例外ではないのだが、骨盤と脊柱、足裏と大地の密着という部分を取り出すと、日本の伝統芸能、特に能など(横の動きを中心とした身体運動であるにもかかわらず)との共通点を考えてみたくなることだ。
また意識による空間の広がりをイメージして演技することが指導されるが、これも勿論上記のアレクサンダー・テクニークの身体運動と深く結びついている。演者が自分の空間の広がりを様々にイメージして演じると、身体の表現も変化するのは言うまでもないが、空間の広がりがイメージだけで終わるのではなく、物理的に広がるということだ。私はこの動きが茶道の身体操作と結果的に非常に近いものを感じた。まず、無駄のない動き、それによる具体的、物理的に支配できる空間が広がるのだ。
以上は、根拠のない単なる印象ではあるが、入り口、方法論は違うのだけれど、結果として、アレクサンダー・テクニークの動きと、日本の身体操作に非常に近いものを感じ、興味深い課題だと思った。それぞれの専門家から浅薄な考えだとお叱りを受けるかもしれないけれど。