R.R
「通して! 通して下さい!」
懇願するマリの心痛を知る由もない群衆には、マリも単なる野次馬のひとりでしかなかった。そこにはホームストレートで止まってしまったオースチンを少しでも近くで見ようと、人がたかりだしていた。
なによりも心配なのは、酷いクラッシュでもないのにナイジがクルマから出てこないからだ。彼らのように、ロータスを凌駕しかかったリザーブあがりの無名のドライバーをひとめ見ようと集まっているのとは違い、マリの狼狽ぶりはただ異様に見え、相手にされない。
どうすることもできず人垣の外でうろたえるマリに、あとから追いかけたリクオが声を掛ける。
「マリちゃん。落ち着け。医務室に行こう。ここじゃあ何もできない。どっちにしろ戻んなきゃいけないだろ?」
涙で顔をクシャクシャにしているマリは、まだリクオの言っている意味が理解できずないままに、人波に逆流して、今度はリクオに引っ張られて階段を上り出口に向かって行った。
「医務室って、そんなに… 」
マリはオースチンから目を離すことができず、ストレートで止まってしまったオースチンは、もう二度と動かないような、そしてその中にいるナイジでさえも、そんな気がしてならなかった。
「ケガしてるとかどうかじゃなくて、事故があれば必ず検査しなきゃいけないんだ。久しくこんなことなかったからな。マリちゃんがピンとこないのもしかたないよ」
リクオが何気なく言った言葉に、このサーキットの問題点が隠れていた。安全性が重要視される中で、知らないうちに走りが小さくなって行くのを気づく者は少なかった。それがサーキット自体の興行にも直結していったとも言え、さりとて能力の伴わない思い切った走りは無謀でしかない。
そのバランスが良ければ、激しい走りのなかでレベルの高い闘いがおこなわれ、そうでなければ、その逆の状況下に陥り、それでもその環境の中で闘っていれば、自分たちのレベルがどこなのかはわからないままだ。
馬庭はいち早くその問題点に気づいたものの、一度施行した安全性をないがしろにすることもできず、その中で抜きにでるドライバーを待ち望んでいたが、出臼のアングルということでついに外部の血を入れることを決断したのだった。
そして今回、ロータスが走ったために自分たちのレベルを知ることとなる。そこで終わるはずだったシナリオがナイジの登場で、馬庭はもう一度、自分の手に収めるために書き換えようとしている。なにもナイジの力を利用しようとしているのは不破だけではなく、馬庭にとっても同じであった。
フェンスを飛び越えてピットレーンから甲洲ツアーズのドライバー達が、息の止まったオースチンに駆け寄って来る。クルマの目立った外傷は右後部の衝突痕ぐらいだ。車内を覗き込むと難しい顔をしたナイジが、ドライビングポジションの姿勢のままに、なにやらブツブツと独り言を言っていた。
「あそこ、あとタイヤ半分。内側を通れば、次のコーナーのインにもっと早く切れ込めたはずだ… 」
最初に声をかけたのはミキオだ。
「ナイジ! オマエ大丈夫なのか?」
ナイジは呼びかけの先に目線を動かし、ミキオの方を向いても瞳孔が定まっておらず、スタート前より更に興奮状態になっているミキオの顔をぼんやりと眺める。
「それだけ外側に流れたのをこらえきれなかった。判断とステアリング操作が遅く、甘くなった。まったくザマアねえな」
「ナイジ! オマエ、自分が何したかわかってんのか? とんでもないことしでかしたんだぞ!」
ミキオの背後には、一目でもドライバーの顔を拝んでやろうと、集まってきた観衆がフェンス越しに鈴なりの人だかりになっている。状況が把握できていないナイジには、それはサーキットのひとつの風景にしか映らず、以前目にした事があるような、それが現実ではないような既視体験の状態にあった。
「それより、1コーナーのインの寄せは、もっと外からのほうがよかった。内に寄り過ぎて、そのせいで次のコーナーへの進入が思ったよりきつくなっちまった。その次のS字区間で… 」
虚ろなナイジのもとへ、助手席側のドアからジュンイチが乗り込んできた。冷静に助手席に右膝をつきシートベルトを外しながら言葉をかける。
「大丈夫かい、どこか痛いとこは? 驚いたよ、走る前には、キミがここまでやるとは思いもよらなかった。ボクの予想の範疇を越えてしまった。凄いな、この大舞台で。しかも最後の最後で、自分の能力をすべて出すことができたんだからね。いや、まだ、すべてではないのかもしれないけど… 」
ナイジの能力を見切ったような言い方をするには語弊があると思い、かまを掛けることも含んで言葉をかけても、シートのナイジは、ただ遠い目をしている。
ジュンイチの賞賛がその耳に届いているとはとても思えない。どこか夢見心地で昼寝から起きて間もない状態にみえるほど、無意識と現実のあいだを揺らめいていた。そんな状況のまま、遠い日の思い出話しでもする口ぶりで、ナイジは自分の走りを振り返りはじめた。
「惜しかったよなあ。5連コーナーの4つ目、3速全開で行けたんだ。インラップじゃあ、そこまで踏み込めなかったのに、描いたラインと実際の進入角がドンピシャだった。あれ以上か、以下だったら、あそこまで踏めなかった。あとは真っ直ぐ走るだけだったのに… 」
シートベルトを外したまま、ジュンイチの手が止まってしまった。
――最後の5連続コーナーを全開だって?――
ジュンイチとミキオは驚いた顔をお互いに見合わせる。ナイジは自らのラップをスロー映像でも見ながら解説していると思えるほど正確に自己分析していた。それらの問題点を修正した走りをして、一体あと何秒縮めるつもりなのか。同じドライバーながら空恐ろしささえ感じ、悪寒とも武者震いとも判別できない震えが身体を走る。
それは自分が言った賛辞の言葉をまったく無意味なものとする、尋常でないこの男の才能を見せつけられ硬直していた。さらに、追い討ちをかける話しは、そこで終わらない。
「タイヤが良すぎたんだ。グリップがあり過ぎて調子に乗っちまった。それが駆動系にムリをかけた。せっかくオースチンが教えてくれてたって言うのに。オレも気が張っていたんだ」
事も無げにクルマの破損部分を指摘し、自分のミスをあげつらうナイジであるが、ジュンイチは最後の言葉に耳を疑った。
そこへ、不破がようやく到着した。ジュンイチはその言葉に意味を問い返すことはできなくなったいた。
若いドライバーと同様にフェンスを飛び越えるわけにもいかない不破は、ピットの入り口から回り込んできたので、どうしても時間がかかってしまった。それなのにナイジが未だに車外へでてこないので気が気でなかった。
「おい、なにしてる、ナイジは大丈夫なんだろうな?」
不破の声に弾かれ、ミキオとジュンイチがナイジを車外へ引っ張り出す。ナイジは相変わらず誰に話し掛けるでもなしに、自分の走りを言葉にして振り返っている。不破にはその姿が異様にも孤高にも見えてしまう。
「いきなりトルクがタイヤに伝わらなくなって。デフかシャフトが逝ったんだろ。調べてみなきゃわかんないけど。タイヤのグリップ力が増したから、ロールと加速の荷重がかかり過ぎたせいで、駆動系が耐え切れなくなったんだ。調子に乗ってクルマに無理を強いたオレが悪かったんだ」
ナイジが正気に見えない不破はナイジの口を塞ぐ。聞かれてはならないことまで話しかねない状況だ。ジュンイチが何かのためにと持ってきたタオルをナイジのあたまにかぶせて、ふたりに抱きかかえられようやく観衆の前にその姿を現した。
生まれたばかりの熱き新星に対し、フェンス際の観衆を中心に拍手の輪が広がっていった。不破もジュンイチもミキオも思わず動きを止め、揺れるスタンドを呆然と見上げる。ナイジはかぶったタオルの隙間から片目だけ光らせていた。
クラシックコンサートのスタンディングオベーションにも似た静寂の後の拍手。誰一人声を発することなく、ただ、拍手の音だけがサーキットに鳴り続けた。
不破たちが驚いたのは、観衆だけではなく、他のツアーズのドライバー達も、ピットフェンス越しに惜しみない拍手を送っていたことだ。
日頃のレースシーンでは考えられない。それは、外様のロータスに対し一矢報いてくれた同胞への感謝の気持ちだったのだろうか。不破はその光景を目にし身体の芯から湧き起こる熱いものが喉の奥までこみ上げてきた。
「見ろよ、このヤロウ、あのワンラップで全ての人の心を掴んじまいやがった。まったく、恐れ入ったぜ。結果が必要な時に望んだ結果を出せるヤツは多くいねえってのに、ましてやそれ以上を成し遂げるなんざ奇跡的だ。ヘッ、結局タイムを上回ってもいないのにこの騒ぎってところがナイジらしいがな」
それが結果的に余計に群衆の期待感を煽ることになっていた。意図してやれることではなく、時流に乗った者にはそんな運めいたモノまで自然とついてまわってくる。
そんな不破の言葉を一番敏感に感じていたのはジュンイチだった。不破の見解からは真逆の立場に置かれることになる自分の不甲斐なさがなんともやりきれない。
ただ、抱きかかえているナイジが、大観衆の扇情が自分のせいで起きているとも思わず、不思議そうに何度も何度も周囲を見回している姿を目にすると、そんなくだらない嫉妬心も何処かへ消え去っていく。
ナイジの姿がガレージに入っても、他のツアーズのドライバー達はガレージの入り口を囲み、見えなくなってもなお、拍手の音は止むことのないスタンドと同様にいつまでも続けられていた。
――ヤツは、あのタイヤじゃなかったのか――
馬庭は展望デッキに立ち、双眼鏡を覗き込み、ホームストレートに止まったオースチンを確認した。
――意図的なものなのか、見る目がなかったのか知らんが。なににしてもコチラに頭を使わせるとは、面白いヤツだ。期待以上だよ――
いままでに目にしたことのないスタンドの様子に負けず劣らず、サロンでもまた、顧客の面々は興奮し、展望窓に張り付いたままだった。いつもとは違う状況に一番驚いているのは、サロンで顧客の相手を務める女性ホスピス達だった。
席を立ち、今もなお窓際から離れようとしない担当顧客に対し、どう接していいかわからず、ひとかたまりになって皆で様子をうかがっている。こんなことは初めての体験であった。すかさずレイナが担当の顧客の言葉を聞き漏らさないようにと助け船を出した。
「馬庭さん。いやあ、今日は大変面白いものを見せていただきました」
顧客の古参である國分が馬庭に近づき、満面の笑みをたずさえて眼下を見下ろしながら話し掛けてきた。
普段ならテーブルに付く女性ホスピスに薀蓄を述べているのに、なにやら、いても立ってもおれず、腰を上げ馬庭の傍に寄ってきたのは、今回ばかりは走りのことはよくわからず聞き役に徹する女性ホスピスではなく、内面から湧き出る言葉を馬庭に聞いて欲しかったのだろう。
「まったく、貴方の懐の深さ、持ち駒の豊富さにはほとほと感服しますよ。まだ、あんな光る原石をお持ちとはね。たしかに、指宿君や坂東君、それにあのロータスの外様ドライバーも腕は確かで速いドライバーではある。しかし、我々の目を留まるのは魅せることができるドライバーです。あたかも水中をなんの抵抗も感じさせず泳ぎ回るイルカのようであり、地上から低空で飛来していくタカのようでもあり。彼の走りは野性的な運動力に満たされ、余すところ無く放出されていた。自然の地形を駆け巡る美しさを伴った走りを、野性の動物ではなく、機械物質である自動車でなされるのを初めて目にしました。まさに『オールド・コース』を走るにふさわしいドライバーですな」
「國分さんに最大限の賞賛をいただけて、彼も喜んでいると思います」馬庭が丁寧に頭をさげた。
「しかし、この終わり方は傑作ですな、最高の結末を迎えようと誰もが確信を持ったあの場面で、クルマの不調でしょうが、楽しみにしていた映画のフィナーレを、突然消されてしまったような気分です。そこまで、貴方が仕組んだと思いたくありませんけれども、結果的に大作映画の予告編でも見せられたような終わり方は、多くの人に更なる成長を期待させ、強い関心を持たせることになるでしょう。だから、観衆も惜しげも無く喝采を贈ったのでしょう」
馬庭は笑みがこぼれそうになるのを抑えた。自分が感じたことを國分が言葉にしていたからだ。
「まだまだ荒削りで危険と紙一重のドライビング、区間最速ラップ、ゴール前でのストップ。馬庭さん下ごしらえは充分といったところでしょ。これで次回が本当に楽しみだ。あなたが、次にどんな物語を描いているのか。いや、実に楽しみだ、まだまだ、楽しませてもらえそうですな。是非、彼には出資させていただきますよ。これまでの倍出してもいい、彼の最初の出資者ということで、一行目に名前を書かせてもらいたい。その権利を得ることができるのなら、それぐらい安いもんです」
一気にまくしたてる國分、若いドライバーを温かい目で見つめる好々爺は、久しぶりの感動を堪能していた。馬庭は手を後ろで組み、目を閉じて國分の話しに耳を傾ける。時折笑みを浮かべ、うなずく仕草は、國分の思い入れへの敬愛か、してやったりの自分への報酬か。
「いいえ、國分さま、私にできることなど、たかが知れております。よいドライバーが育つのはツアーズGMの努力の賜物でしょう。それに、ドライバーが成長できるのは、國分さまをはじめとする、ここサロンにおられる皆様の目です。厳しい目に晒され、ご意見をいただき、現場に落とし込み、一人一人が求められているものを理解して初めて、ドライバーとして成長していくのです。あの若者に未来があるとお感じであれば、どうぞ、厳しいご意見をいただけますようお願いいたします」
そう言うと、深々と頭を下げる馬庭。サロンのほかの客達も一体何が起きたのかと、視線を集める。
「あっ、馬庭さん止めてください。そんな、頭を上げて。私達はただ、レースを見させてもらい好き勝手言っているだけの過去の人間に過ぎません。自分達ではもはや叶えられない夢や希望を彼らに託しているだけなのですから。そんな、夢の舞台を用意できるアナタのお役に立てるならと、ここに馳せ参じさせてもらっているだけです」
サロンでもまた、一斉に拍手が起きた、國分の言葉は我々を代弁しているという意思を馬庭に伝えたかったのだろう。馬庭は手を胸に当て会釈をした。
「皆様、ありがとうございます。この拍手は私というよりここにいるホスピスの女性陣および、本日のレースを盛り上げてくれた各ツアーズの面々へ戴いたもとの理解しております。サーキットは再び活況を取り戻すでしょう。『オールド・コース』の復活と共に。成熟したエースクラスと新しい力が融合して、見ごたえあるレースをこれからも続けていく所存です。次回も皆様の期待に応えるマッチアップをご用意いたします。是非ともお楽しみにしていてください」
そして、また一段と大きな拍手が沸きあがると、馬庭を中心に人垣が形成され誰もが我先にと馬庭に握手を求めるのだった。
力強く両手で顧客の手を握り締める馬庭。一つの計画はヤマを越え順調に事を終えても、そこで立ち止まることは許されなかった。
膨らんだ容積を埋めるためには、さらに多くの仕事が待ち受けていると知っており、果たして、自分自身がいったいどこまで速く走っていられるのか、何のために体に鞭打って、目の前にぶら下がった餌を獲得しようと邁進しているのか。
その答えは出ることもなく、しょせん自分も、あの若いドライバーとなんら変わらず、行く当ての無い不毛地帯を走りつづけているに過ぎないことを思い知らされていた。