しろいはね くろいはね

感情解放、ヒーリング、意識の目覚めをキーワードに日々の気づきを綴っていきます

「鏡」を見つめて核心の痛みを見出す

2017年01月04日 07時00分00秒 | 日記

暮れからこのお正月にかけて、小さなことだけれど母との関係でイラッと来ることがいくつか重なり、何となく晴れ晴れとしない気持ちで過ごしていました。そこで、水星逆行が明ける前に、もう少し踏み込んでこの関係を見てみることにしました。

 

母との関係は、10年も前から見れば随分良くなっていて、今回のこともさほど険悪になったというわけではありません。多分、互いにイライラしながら、それでも親子なので「まったく、仕方ないなぁ」という程度ではあるのです。とは言え、些細である内にサインに応答するというのがワークの基本ですから、このまま放っておくわけにもいきません。

暮れから重なったいくつかの出来事での母の行動について、その動機を見ていくと、「娘(私)は人の気持ちが分からない」「当てにしなければいいんだ」と思っているようでした。

けれどその一方で、思い切り私を当てにして行動計画を立て、私の都合も関係なく振り回すこともあり、それでいて「いいじゃない」と全く悪びれないでしれっとしていることもあります。

ある部分で突き放しながら、別の部分ではべったりと自分の分身のように都合よく使っているのですね。

そんな母の態度に私の方は「自分は何もかも分かっているつもりでいても、何にも分かっていないじゃないか」と憤りを覚えたり、「この人に何言っても無駄なんだろうな」「何をしてあげても、不平不満ばかりが返ってきそう」という諦めとネガティブなフィルターをかけて母を見てしまっています。

実際のところ、母はいつも不平を言っているわけではなく、ちゃんと「ありがとう」という言葉も言ってくれています。けれど、私の中の怒りや虚しさというフィルターが、母を「不平不満ばかり言っている」と見せてしまうのです。

このフィルターがあるが故に、ただ普通にしている母を見るだけで、私の中に怒りが噴き上がって来てしまいます。

その怒りを感じながら、イメージワークで母の姿を私の視点からじっと見つめます。同時に、母の視点に入って見て、母から私を見てみます。

すると、どんなに言い合いをして一時的に関係が険悪になっても、深いところでは絶対に離れることは無いのだという心安さというか、気を許している部分が互いにあるのだという気づきがやってきました。

今までは、自分の中にそういう思いがあるのは知っていましたが、母の側もそうだったというのはちょっとした発見です。

母と娘だからというだけではなく、母とは何度も関係性を変えながらいくつもの人生をともに生きてきているので、魂のレベルで古い付き合いがあるという背景が大きいような気がします。

それから、なぜか母は私という存在に押しつぶされるような圧迫感を感じていたようです。これも初めて知りましたが、その感覚は、同時に私自身が母に対して感じていたものとまったく一緒です。私はそのプレッシャーとずっと戦ってきたのですが、私たちは互いの中に同じものを見て、幻想の中で戦ってきたということになります。

互いに気心が知れているようで、決して理解し合うことのない水と油のような、分離した感覚が拭い難く常にあるのですが、この分離感は一体どこから来ているのだろうとさらに見ていくと、自分の世界観から相手を見て決めつけていて、そこから離れて相手が何を感じ、何を考え、見ているかを知ろうとしていないというところが見えてきました。

「鏡」だけあって頑固者同士なので、以前はこの辺りで衝突と反発を繰り返していました。けれど今は互いの領域を侵さないことで、分かり合えているわけでも本当の意味で尊重しているわけでもないけれど、表面上の平穏を保っている状態です。

ここから、もう少し関係性を良くしていくことを目指すなら、自身の正当性から降りて、相手が何を感じ、考え、見ているかを見て行くことが必要だろうということが分かってきました。

過去の様々な状況を母の視点から振り返ってみると、母は私にも「家の重荷」を背負ってほしかったようです。

私から見ると、「それはそもそもあなたの義務でしょ」という風に見えてしまうのですが、私は昔から、母が押し付けてくるそうしたものにひどく腹を立てていたのでした。自分が何に怒っていたのか、やっとわかった気がします、

母がそうした重荷を引き寄せてしまう根幹には、無価値感があるようでした。つまり、重い義務を果たすことで、自分自身に対する価値を見出そうという無意識のパターンです。その一方で、自ら引き寄せた重荷を背負いきれなくて他者をも巻き込もうともしています。

私から母への願いは、「自分で引き寄せたものの責任を、他者に投げることなく自分で取ってほしい」でした。

ここまで見て来て、これらはすべて母が本当にそうなのではなく、私自身の内面を見てきた鏡の像だということをお断りしておきます。ここで捉えた核心の痛みを、しっかり受け止めていくことにします。

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