徒歩日本二周目(≧∇≦)只今関東地方!

昨日は今日の物語 今日の後に今日は無し…

樺太の悲劇…(八)

2012年10月30日 | 日記
樺太庁の最高行政機関は
ソ連軍による侵攻開始の二日後から
疎開船による
島民の北海道脱出を始めていた…

8月22日
避難民を満載した3隻の疎開船は
樺太を出航し南下
北海道の小樽へ向けて航行中
留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受けた…
3隻は次々と大破し2隻は沈没
残る1隻は
多くの犠牲を出しながらも
留萌の港へたどり着いた…

この日の出来事は
三船殉難事件として今でも伝えられ
犠牲になった1,700人の冥福を祈り
慰霊碑が建てられている…

樺太の悲劇…(七)

2012年10月30日 | 日記
豊原爆撃…
35,000人が暮らす豊原の街は
南樺太で最も大きく
刻々と伝わるソ連軍侵攻の報に
街の至る所で白旗が掲げられ
抵抗の意が無い事を訴えていた…

そして8月22日
日本とソ連の間に停戦協定が成立…
しかしその翌日
ソ連軍は豊原に侵攻し街を破壊…
赤十字旗を掲げていた豊原駅も
爆撃の対象となった…

大混乱に陥った市民に対しては
機銃掃射を繰り返し
山に逃げ込んだ人々は
寝巻き姿や裸足の者もいたが
自動小銃により悉く殺されたという…

停戦協定は守られなかった…

樺太の悲劇…(六)

2012年10月30日 | 日記
9人の女性達…(2)

最後の交信をした泊居郵便局長の話…

8月20日の午前6:30頃
「今、皆で自決する…」と知らせがあり
「死んではいけない」と説いたが
ひときわ激しい銃声の中で
「高石さんは、もう死んでしまいました…
交換台にも弾丸が飛んできた
もうどうにもなりません…
局長さん、皆さん、 長くお世話になりました…
おたっしゃで、さようなら…」
という声が聞き取れた…

局内に立ち入る事が出来た真岡局長の話…

彼女達はブレストを耳にしたまま
プラグを握りしめ
最後まで交換台にしがみついたまま
倒れていた…
立ち合ったソ連軍将校も
状況を目の前に
胸で十字をきって黙祷した…


昭和40年代、稚内を訪れた昭和天皇は
彼女達を讃える碑の前で
目に涙を溜め、深く頭を垂れたと言われる…

樺太の悲劇…(伍)

2012年10月30日 | 日記
9人の女性達…

島民の緊急疎開が開始される中
郵便局の電話交換手達にも
本土への引き揚げが告げられた…
しかし彼女達は疎開をせず局に留まり
業務を全うする道を選んだ…

当時、樺太の電話交換業務は
国防用・緊急連絡用として
重要な任務を担っていたと言われる…

8月20日早朝のソ連軍進撃により
真岡の街はみるみる戦禍に包まれた…

窓越に見える砲弾の炸裂
刻々と迫る身の危険の中で
9名の女性交換手は
逃げる事無く最後まで状況を伝え続け
そして「サヨウナラ…」の言葉を最後に
自ら命を絶った…

昭和20年8月20日
それは、終戦から五日後にあたる…

樺太の悲劇…(四)

2012年10月30日 | 日記
8月20日…
ソ連軍の侵攻が南部の真岡に到達…
北部からの避難民でごった返す市街は
大混乱を極め
工場地帯は瞬く間に焼け落ち
非武装無抵抗の市民に浴びせられる
執拗な機銃掃射
防空壕にも次々と手榴弾が投げ込まれ
一家心中や集団自決が
あらゆる場所で繰り返された…