徒歩日本二周目(≧∇≦)只今関東地方!

昨日は今日の物語 今日の後に今日は無し…

樺太の悲劇…(参)

2012年10月30日 | 日記
「死の内恵道越え…」

爆撃から逃れようと
山道へ殺到した避難民達の群れに
ソ連軍はヘリからの機銃掃射を
繰り返し続けたという…

水も無く、食べるものも無く
乳呑み児は乳を与えられず道に屍を晒し
死んだ母親にすがる子供
子を殺されて発狂する母親
避難の群れについて行けないと
死ぬ事を選ぶ老人達
取り残される恐怖から
実の我が子に手をかけてしまう母親…

その地獄絵図の山道は
のちに「死の内恵道越え」と呼ばれた…

樺太の悲劇…(弐)

2012年10月30日 | 日記
終戦を迎えた昭和20年8月15日
本当の悲劇はこの日から始まった…

ソ連軍は北部の恵須取・浜塔路に上陸…
北部開発の拠点であり
首都豊原を超える人々が生活する街は
ソ連軍の爆撃により
三分の二があっという間に焼け落ち
逃げ切れずに自決する人々が続出した…

大平炭坑病院では激しい空襲の中でも
怪我人の治療看病が続けられたが
翌16日、23人の看護婦が薬物による自決…
ソ連兵による辱めを避けるためだった…

生存者の証言には、こうある…

小高い丘の 楡の木の下で
「山桜」の唄を歌った後に薬物を注射
致死量に至らづ手首を切断…

樺太の悲劇…(序章)

2012年10月30日 | 日記
北緯50度の破られた静寂…

かつて日本領であった南樺太には
42万人もの日本人が暮らし
海産資源をはじめ
木材や石炭にも恵まれていたという…

しかし、長崎に原爆が投下された
1945年(昭和20)8月9日
ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄
二日後の8月11日
北緯50度の国境線を越え
日本領へ怒涛の進撃を開始した…

既に戦車も飛行機も無かった
国境半田沢の守備隊は
少しでもソ連軍の南下を防ぐため
トーチカに立て籠もり
激しく戦い抵抗を続けたと言われる…

満州や千島、朝鮮北部においても
ソ連軍による侵攻が次々と開始されていく…

最北の更に北…

2012年10月30日 | 日記
この岬から北へ43km…
そこには、樺太と呼ばれる
かつて日本人達が暮らした大地がある…

その場所には
この宗谷が最北と呼ばれる前の
悲しい物語が音も無く眠っている…

それは僕の全く知らなかった
とても悲しい話でした…